ボクは新宿で飲むのが好きだった、澁谷でも池袋でもなく、新宿。もちろん六本木でもない。
1970年前後の話。昭和45年前後のことだ。
なぜなら、新宿にこそ当時の生命力のほぼすべてが集約されていたからだ。
学生運動の負のパワーも、成り上がろうとする若者のパワーも、すべてが新宿で混沌としていたのだ。
ボクのフェイバリット・プレイスは、何と言っても新宿のゴールデン街だった。
このエリアには、まっとうな人間なんぞいなかった。本人は自分は十分にまっとうだと思っているのだが、ほとんどがそうではなかった。統合性失調気味の奴、学習障害の奴……要は自分を理解し切れずにいる子供じみたやつがうじゃうじゃしていた。斯くいうボクもその一人だったろう。
その当時ボクはすでに結婚していた(後に戸籍はきれいなままだったということが判明したが、その理由をボクはいまだに理解していない)。20歳で同じ高校の一年後輩の女性と結婚した。
同じ演劇部だった。
実は、高校で彼女を知ったわけではない。小学校時代には、同じ人形劇部に所属し、その当時から彼女に好意を持ったいた。
中学時代も、ことさらに部活動としてはなかったが同じように演劇を志し、同じように活動をしていた。
そして、演劇コンクールのトップを獲った高校に進学したが、彼女もまた同じ高校にやってきた。
自分の書いた戯曲で東京都の高校演劇コンクールで2位を獲得したが、全国大会には出られなかった。その「現代の戦い」という、シュールな印象を与える戯曲は彼女のために書いたものだった。
そして、彼女と新宿・厚生年金会館裏、富久町の一軒家でしばらく暮らした。そこには室田という役者が同居していた。後に伊武雅刀と改名して、活躍した(と言うより、今も活躍している)。
なぜそこに住んだのかと言えば、ゴールデン街に近いからだった。
ゴールデン街からは外れるが、古茶という飲み屋があった。おばちゃんが一人で経営していた。造りからして青線時代の名残りをそのまま引きずる店だった。一階はカウンターだけで、急な階段を上がった二階は4畳半くらいのスペースで、そこで演劇仲間がひしめき合って酒を飲んだ。飲み過ぎて、二階からおばちゃんに嘔吐を浴びせたこともあった。
それでもおばちゃんは許してくれた。
古茶はおばちゃんの後、役者の外波山文明が引き継いだようだ。その頃のボクは、雑誌の編集者として活動していて、ほとんど足を向けることがなかった。
だが古茶はボクの精神の原点と言ってもよかった。なぜなら、良し悪しは別にして、新宿というサブカルチャーの坩堝の、さらにディープな部分を教えてくれたから。
平成が終わる。
ボクの若い頃には、良く「明治は遠くなりにけり」という言葉を聞いた。
いま「昭和は遠くなりにけり」と言っておこう。だが、この言葉は明治もそうだが昭和もまた、良き時代だったという意味合いを持った言葉なのだ。遠くなることを懐かしいんでいるわけではない。
生きるという意味では、本当に適当な時代だった。ものを考えるのに最適な、得るものも失うものも大枚な、本当に人が生きていて生きやすい、時代だったのだ。
1970年前後の話。昭和45年前後のことだ。
なぜなら、新宿にこそ当時の生命力のほぼすべてが集約されていたからだ。
学生運動の負のパワーも、成り上がろうとする若者のパワーも、すべてが新宿で混沌としていたのだ。
ボクのフェイバリット・プレイスは、何と言っても新宿のゴールデン街だった。
このエリアには、まっとうな人間なんぞいなかった。本人は自分は十分にまっとうだと思っているのだが、ほとんどがそうではなかった。統合性失調気味の奴、学習障害の奴……要は自分を理解し切れずにいる子供じみたやつがうじゃうじゃしていた。斯くいうボクもその一人だったろう。
その当時ボクはすでに結婚していた(後に戸籍はきれいなままだったということが判明したが、その理由をボクはいまだに理解していない)。20歳で同じ高校の一年後輩の女性と結婚した。
同じ演劇部だった。
実は、高校で彼女を知ったわけではない。小学校時代には、同じ人形劇部に所属し、その当時から彼女に好意を持ったいた。
中学時代も、ことさらに部活動としてはなかったが同じように演劇を志し、同じように活動をしていた。
そして、演劇コンクールのトップを獲った高校に進学したが、彼女もまた同じ高校にやってきた。
自分の書いた戯曲で東京都の高校演劇コンクールで2位を獲得したが、全国大会には出られなかった。その「現代の戦い」という、シュールな印象を与える戯曲は彼女のために書いたものだった。
そして、彼女と新宿・厚生年金会館裏、富久町の一軒家でしばらく暮らした。そこには室田という役者が同居していた。後に伊武雅刀と改名して、活躍した(と言うより、今も活躍している)。
なぜそこに住んだのかと言えば、ゴールデン街に近いからだった。
ゴールデン街からは外れるが、古茶という飲み屋があった。おばちゃんが一人で経営していた。造りからして青線時代の名残りをそのまま引きずる店だった。一階はカウンターだけで、急な階段を上がった二階は4畳半くらいのスペースで、そこで演劇仲間がひしめき合って酒を飲んだ。飲み過ぎて、二階からおばちゃんに嘔吐を浴びせたこともあった。
それでもおばちゃんは許してくれた。
古茶はおばちゃんの後、役者の外波山文明が引き継いだようだ。その頃のボクは、雑誌の編集者として活動していて、ほとんど足を向けることがなかった。
だが古茶はボクの精神の原点と言ってもよかった。なぜなら、良し悪しは別にして、新宿というサブカルチャーの坩堝の、さらにディープな部分を教えてくれたから。
平成が終わる。
ボクの若い頃には、良く「明治は遠くなりにけり」という言葉を聞いた。
いま「昭和は遠くなりにけり」と言っておこう。だが、この言葉は明治もそうだが昭和もまた、良き時代だったという意味合いを持った言葉なのだ。遠くなることを懐かしいんでいるわけではない。
生きるという意味では、本当に適当な時代だった。ものを考えるのに最適な、得るものも失うものも大枚な、本当に人が生きていて生きやすい、時代だったのだ。