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東京「昭和な」百物語<その56>喫茶店文化

2019-07-31 15:55:48 | 東京「昔むかしの」百物語
荻窪の喫茶店・邪宗門。

狭くて急な階段を上り切ったところに、崩れそうな2階席。細長いスぺースに一人か二人が座ればそれでおしまいという感じのテーブル席が3、4席。1階はカウンター席だったような記憶があるが、本当のところは覚えていない。なにせ僕がよく行ったのは。もう50年前のことだから。

だが、いまでもしっかりと覚えている。当時の青少年にとっては、店の名前に相当のインパクトがあったのだ。

荻窪の北口を右手に進んだ横丁の一角にあった。もちろん北原白秋の名著・詩集「邪宗門」から取ったのだろう(よもや高橋和巳の「邪宗門」ではあるまいが……)。

今どきはそれがどうしたといったところだろうが、昭和の時代には店を訪れる客の多くは、ある種の知的優越感とでもいうものを懐にして通ったはずだ。文庫本の白秋詩集を携えていても、馬鹿にされることなどはなかったはずだ。

調べ直してみて驚いた。あのいつ潰れてもおかしくないような喫茶店が、今では全国に6店舗も構えているのだそうだ。そしてなおさら驚いたのが、荻窪発祥ではなく国立にあったお店の分店だったということ。知らなかった。

それにしてもいつの間に全国展開していたのだろう。遠くは富山に下田、小田原、石打高原、そして世田谷に「邪宗門」はあるのだそうだ。

「邪宗門」のような雰囲気をもった喫茶店は、今から30年ほど前に(つまり昭和の内に)絶滅したと思っていた。ようは喫茶店文化が一気に廃れたと思っていた。

「邪宗門」に対して抱くイメージに近い店は、ボクの知る限りでも他にも何店かあった。

この物語でもいくつか紹介した記憶があるが、中野にあった「クラシック」(何年か前に潰れてしまったそうな)、同じ荻窪の「ミニヨン」、神保町の「さぼうる」、新橋(銀座?)の「ランブル」なんてところはよく出向いた。みんなまだ健在だ。新宿の中央通りにあった「凮月堂」、「ウィーン」。「ぼろん亭」(ここでボクはアルバイトをさせてもらっていた。ママは円谷プロに縁のある方だった)。こちらはもうない。

いずれにせよ、それぞれに喫茶店文化を創り上げているお店だった。

喫茶店がそこに集う人々を選び(店の雰囲気がフィルターになっていたという意味)、集う人々が店のイメージを上積みするようにまた作り上げていく。そういう連鎖が起きた店が良い店だった。

要は人の息吹があることが大事だった。ママや手伝いのお姉さんに惚れて通ってみたり、客同士が趣味や趣向でつながってみたりしたのだ。ボクはアルバイトをしていた「ボロン亭」で、客として来ていた雑誌メディアの関係者にスカウトされて、出版業界に携わるようになり、物を書く仕事を今日まで続けている。

そのアナログ的雰囲気こそが昭和だった。

喫茶店経営が儲かる業態であると、巷の週刊誌や経済誌がほめそやし始め、豆の産地がどうした、コーヒーの落とし方がどうした、やれうちの店は水から落とすぞなどと、喫茶店経営にまったく別のアプローチが始まり、喫茶店文化は消えたとボクは思っている。

経営、儲けといったドラスティックな側面が前面に出てきたわけだ。それが平成という時代の始まりだった。

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