聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記四章15~31節「あなたの神、主は、あわれみ深い神」

2014-12-09 10:32:21 | 申命記

2014/12/07 申命記四章15~31節「あなたの神、主は、あわれみ深い神」

 

 ここで繰り返して強調されているのは、16節で、

 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。…

と言われている、偶像崇拝の禁止です。人や動物、また空の星々、どんなものを拝んでもならない、と繰り返されています。先月お話ししたように、神である主は目には見えないお方であり、また、契約の言葉を下さって、私たちがその御言葉に従うという、人格的な関係を造られるお方だからです。そこに、私たちが、御言葉を聞き、従うよりも、もっと手っ取り早い手段として偶像を持ち込むことが決してないように、と厳しく繰り返されているのです。真の神様を捨てて、偶像を拝むということは勿論御法度(ごはっと)ですが、真の神である主を礼拝しながら、そこに見える形を持ち込むことであっても、厳しく禁じられるのです。

20主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のようにご自分の所有の民とされた。

 苦しみの地、「鉄の炉」と表現されるようなエジプトの奴隷生活から連れ出してくださいました。力強い御業が確かに行われたのです。そして、彼らは主の「所有の民」とされたのです。主のものとされ、主が彼らをご自身のもの、大切な宝、かけがえのない「わが民」としてくださいました。イスラエルの民は、もはや自分たちが主の「所有の民」とされている事実、自分たちの所属、国籍を神に持っていることを忘れてはなりませんでした。21節22節でモーセは、自分がヨルダン川を渡れないことをまた持ち出しています。その最後に、

22…しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。

 これが言いたいのですね。主があなたがたを「所有の民」としてくださった、その事実に基づいて、あなたがたは良い地を所有させて戴こうとしている。私はそこに行けないが、あなたがたは所有しようとしている。それが決して当たり前ではなく、主の憐れみによる恵みである事を覚えていなさい、と言われているのです。覚えよ、忘れるな、です。

23気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令に背いて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。

 主の契約を忘れることが、彫像を造る誘惑に直結するのです。そうでないと、

25あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行い、御怒りを買うようなことがあれば、

 つまり、神様から与えられた所有の地で、長生きして家族も増えて繁栄しているうちに、その生活で偶像を造ることになる。神様からの祝福や恵みでさえも、そこから偶像を造り出す罠に掛かってしまうのです[1]。けれども、モーセは厳しく言います。

26私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅び失せる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。

 厳しいことです[2]。でも、それは恐ろしい最後ではないのです。その後に何とありますか。

27主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。

28あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々[何も出来ない、文字通りの「木偶の坊」]に仕える。

29そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

30あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち帰り、御声に聞き従うのである。

 なんという神様の大がかりなご計画でしょうね。厳しく罰せられて、自分たちの浅はかさを思い知った末、ようやく自分たちの間違いに気づいて悔い改めるときに、その時、そこで、主に会うのです。主がその外国の地にもおられて、彼らに会ってくださるのです。そして、主に心から立ち帰って、御声に聞き従うようになる。それが、主の約束なのです。

31あなたの神、主は、憐れみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。

 恩知らずの末路なのですから、罰して滅ぼして見捨ててもいいのに、そうはなさらないで、その罰もまた、彼らが立ち帰るためであって、そうしてボロボロになっての立ち帰りを主は受け入れてくださるというのです。これが、主の憐れみ深さであります。

 ここには、聖書の物語の要約があります。天地を造られた神様は、天と地の全てを通して栄光を現しておられます。このお方を(このお方だけを)無条件に礼拝することは、すべての被造物にとって当然のことです[3]。神の民は、本来の神様との人格的な関係-神が御言葉を与え、民が心から聞き従うという契約関係-へと召された民です。しかし、人間はまだ神様の栄光や御真実に鈍感です。まだ神を利用したり、自分が神を所有したり捨てたり出来るかのように思う罪人です。だから、主の御業を忘れずに思い起こし続ける必要があります。御言葉に聞き続けることが大切です。目の前の出来事や不安などに惑わされて神ならぬものに縋(すが)ったりしないことが、私たちにとって必要です[4]。けれども、私たちが御言葉に単純に信頼せず、偶像とか御利益とか様々なものを持ち込んで、どうしようもなくなったとしても、その末に、主は私たちの心を取り戻し、深い悔い改めに至らせて、この憐れみ深い神様ご自身を心から愛し、求め、崇めるようにしてくださる。そこに神様の御心があり、これが神の民の物語です。そして、私たちの歩みもその大きな物語の中の大切な一ピースとしてここにあるのです[5]

24あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神…

 真の偉大な神、憐れみ深い神を、何にも出来ない偶像と取り替えてしまうだなんてことには、神は聖なる炎となり、妬むと言われる程の激しい情熱をもって怒られます。それほど私たちは愛されています。その神の深い憐れみの中で、私たちは導かれ、取り扱われ、この神様との生き生きとした交わりに立ち帰る途中にあります[6]。アドベントは、主がおいでになった事実を忘れないための時です。神なる主が、私たちのために、栄光の御座から貧しく低い人となってくださいました。それほどに私たちを愛してくださった主は、今も、決して私たちを捨てたり滅ぼしたりはなさいません。何があろうとも、この神に並ぶような救いはないのですから、偶像や幻は一つ一つ捨てて、悔い改めましょう。御言葉を信じましょう。私たちのために人となり十字架に死なれた主イエスの御真実に立ち帰り、主との親しい交わりに生きましょう。[i]

 
「あなた様が天地を造り、御業をなされ、民を救い、ご自身が十字架にかかり、よみがえられた、これ以上に確かなことはありません。どうぞその御真実によって、私たちを虚しいものからお救いください。今からパンと杯を戴き、贖いの御業を思い起こします。主の聖なる御愛が世界を導いています、その物語の中で、私たちの歩みも痛みもあることを感謝させてください」


[1] ここには、祝福さえも、それ自体が求められるときに、偶像崇拝の罠となる面が明らかです。それは、十戒の第十戒で「ほしがってはならない」と言われること、そして、パウロが「むさぼりがそのまま偶像礼拝なのです」(コロサイ三5)と指摘していることにも通じます。民が、豊かさを神以上に愛するなら、かならずそこには何らかの偶像崇拝が起きますし、そもそも民の中にはどんな祝福さえ自分にとっての毒としかねない不信仰の罪があるのです。そこが取り扱われ、解決されない限り、民の前途は安心できません。

[2] 16、25節「堕落」は、ホレブはもちろん、ノアの時の堕落をも彷彿とさせます。大洪水の破滅を招いた堕落でした。この「堕落」は、31節で「滅び」と訳されているのと同じ語です。創世記六章でも、11-12節「堕落」は、17節「滅ぼす」と同じ語です。民が堕落したため、主は民を滅ぼさざるをえません。同じ「言葉遊び」です。

[3] 私たちが神を礼拝する理由は、ひと言で言えば、神が神であられるから、に他なりません。ですから、不幸が襲おうと、神ならぬものがその礼拝を禁じ妨げようと、教会に問題や気に食わぬこと(人)が存在しようと、いっさいの「理由」は、神礼拝をしない理由にはならないのです。勿論それは、日曜の礼拝に会堂へ来る、という礼拝だけではありません。普段から、神を礼拝し、神ならぬものを礼拝しない、という全生活の礼拝です。

[4] 「私たちにとって」と言うのは、神様が怒るからダメだ、なのではないからです。

[5] 「イスラエルの歴史は、神との契約関係に生きる歴史である。この点から、イスラエルの全歴史が大きく見通される(25-31)。イスラエルの歴史を通し、「ねたむ神」(24)としてのきよさと、イスラエルの回復(2930)に現される「あわれみ深い神」(31)としてのあわれみが示されて行く。神のきよさとあわれみ、神の民の従順と不従順に基づく、さばきと回復のドラマの展開。これこそ、申命記を、そして聖書全体を貫く歴史展開である。」宮村武夫『申命記 新聖書講解シリーズ』38-39頁。

[6] これは、個人的なことである以上に、神の民の大きな歴史を視野に入れてのことである。創造、族長、出エジプト、そして、捕囚や帰還、さらにキリストの受肉と十字架と復活、終末という大きな流れで語られている。その物語の中に私たちがある。私たちの人生だけで成就したり結論したりは出来ない。近視眼的に考えないこと。そうしないと、目の前のことで一喜一憂し、それこそ偶像に飛びついてもしまう。見えることをすべてとしないこと。今目の前で起きていることよりも、神が世界を創造され、贖いの御業をなさり、聖書に書かれている栄光ある業を確かになさったことのほうが、遥かに大事である。そして、やがて、すべては完成するのである。今、苦難が起きるとしても、それは、私たちが真の神への心からの礼拝に立ち帰るためである。

[i] ここで「水の魚の形をも」と言われています。他の、人間や家畜や天体を象った偶像は、エジプトやパレスチナにおいて発掘されていますので、そうした偶像を作ることを繰り返さないよう言われていると理解されますが、「魚」の偶像だけは発見されていないそうです。とすると、これは、あり得ない先のことまで見越しての注意でしょう。しかし、日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。あり得ないことを仮定しての警告が、現実になっているのです。ここで述べられているような、全能・真実・支配・憐れみの神と、鰯とを並べてしまうとは何と愚かで冒涜的なことでしょうか。しかし、それが人間の姿です。けれども、その人間をご自身への人格的な信頼へと、強いてでも引き戻して下さることに、主のご計画・御心・御業があるのです。

 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルカ20章1~8節「わたしも話... | トップ | ルカ20章9~18節「礎の石」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

申命記」カテゴリの最新記事