聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問14 「罪とは何ですか」Ⅰヨハネ一3~5

2014-08-06 08:31:08 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/08/03 「罪とは何ですか」Ⅰヨハネ一章3~5節
ウェストミンスター小教理問答14

 罪とは何でしょうか。今日のウェストミンスター小教理問答14では、それを問います。

 罪とは何ですか。
 答 罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、あるいは、それに違反することです。

 今読みました、Ⅰヨハネ三章の4節にあった言葉です。

  罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

 では「逆らう」とはどういうことかと問うて、消極的には「かなわないこと」要求を満たさないことですし、積極的には「違反すること」、禁じられていることを行うこと、としているわけです。「罪」とか「罪人」と教会で言われているのを聞くと、「物凄く悪い事」「法律違反をすること」と考えて、自分とは関係がない、と言う人が沢山います。けれども聖書が言う罪とは、犯罪・悪い事、に限りません。神様の定められた律法、人間が守るべき道を踏み外すことが「罪」なのです。

 ティム・ケラーという人が、こんな事を言っています。

  聖書による主要な罪の定義は、悪いことを行うことではなく、良いことを究極的なことにすることである。それは、自分の意義や目的や幸福のために、神との関係よりも他のものを中心にすることによって、自分自身を意味づけようとする事である。

 悪い事をするのではなく、たとえ良いことであっても、そちらの方を神とすることが罪なのだ、というのですね。神様を信じ、礼拝するよりも、自分が中心になってしまうことが罪なのです。言い換えると、

 「神さえ利用して、自分を高めようとすること」(清水武夫)

が罪なのです。

 私たち人間は、本来「神のかたち」に造られたものです。ですから、今でも正しいこと、美しいこと、立派な生き方をいいと思うのです。テレビや映画、小説やニュースにしても、まっすぐに生きている人が褒められ、正義の味方が最後には勝ち、自己犠牲を麗しく思い、愛を貫く姿に涙を流すのです。愛のある人になりたいと願ってはいるのです。しかし、一番肝心な神様との関係が壊れています。心の中心で、神様に背いてしまっています。表面的に、いくら優しく、真面目に、恥ずかしくない生き方をしようとしても、心が神様から離れているのですから、決して「神の律法」を守って生きる事など出来ません。そして、うわべで善人のように振る舞っていても、他の人を妬んだり、損得を考えたり、プライドを持たずにはおれないのです。

 ギリシャ語で「罪」を「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ」という意味だそうです。神様によって作られて、神様の栄光を現し、神様を永遠に喜ぶようにとの目的があったのに、その目的を外して、自分のために生きるようになったのです。ですから、人と比べて特別悪いことはしていないとしても、問題はそもそも神様に背いていることなのですから、その罪を認めて、悔い改めなければなりません。それは、やってしまった悪いことをゴメンナサイ、と言う以上のことです。神様に立ち帰って、神様に従って生きる生き方に向きを変えることです。自分の力で正しく生きよう、今度は失敗しないように生きよう-そんな生き方ではダメなのだ、と認めて、神様に自分の心を支配して戴くよう、降参しなければならないのです。

 逆に言えば、聖書の字面だけを読んで、怒らないようにしようとか、嘘を吐かないようにしよう、と考えても、それはモグラ叩きをするようなもので、きりがありません。怒りとか嘘とか具体的な行動は、罪という大病の「症状」なのです。病気を治そうとせずに、熱だけ下げよう、顔色だけよくしようとしても、健康にはなれません。罪も、怒りや嘘、妬み、欲望に現れますが、それは症状であって、それをなくそうとしても無理です。むしろ、そうした症状が出て、自分としては恥ずかしくて、失敗したと思うような経験によって、自分の罪に気づけるのです。自分の心にあった自己中心、神様への不信仰、不平、罪を認めたくないプライド…。そうしたものに気づかせて戴いて、神様の前に静まって、深い罪を認めて、赦される恵みをいただけるのです。

 自分の罪を認めたくない思い。それは、私たちにとって、一番大きな罪の病状の一つでしょう。自分の犯した罪を認めたくないのです。ゴメンナサイと言いながら、自分が特別悪いわけじゃない、と思いたいのです。自分が一番可愛くて、神様の律法ではなくて、自分の決めた基準を持ち出して、神様にもそれを押しつけてしまうのです。神様に栄光を帰するよりも、自分の栄光を求めて、自分の人生を輝かせてくれるような神様を願うのです。自分の非を認められないとか、傷つきやすい人が増えていると言います。元気で、明るく、楽しいクリスチャンライフを提供する教会が受けているそうです。でも、それが、もしも罪をちゃんと指摘することを避けて、ひとりひとりの心にある傲慢やプライドを触れないことでなりたっているのなら、それはとても危険なことです。

  Ⅰヨハネ三4キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。

とヨハネは言いました。でも、罪が何か、が分かっていなかったら、イエス・キリストが何のために現れて下さったのかも分からなくなります。将来、完全にきよくされるとの望みも持てませんし、今も自分を清めようとも出来ません。そして、いつまでも神様によって深い赦しをいただくことも出来ず、怒りっぽく、不安で、言い訳や人を非難することで胡麻菓子ながら生きる事しか出来ないのです。それは、ほんとうに勿体ないことです。

 聖書を学び、神様の律法を深く知っていくことによって、私たちは自分の罪に気付きます。でもそれは、恥ずかしいだけで立つ瀬がなくなって終わることではありません。それによって、私たちが自分の罪を認めて、ますますイエス様に縋ることが出来るのです。罪を取り除いてくださるイエス様を信じて、本当にきよい生き方へと導いて戴くのです。

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