2014/08/03 申命記二章1~25節「与えられたもの、与えられないもの」 (#367)
申命記は、エジプトの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民が、遂に約束の地に入ろうとしている時、指導者モーセが彼らに語った、最後の説教です。三章までは、ここまでの歴史をかいつまんで振り返っていますが、四十年の大半は端折っています。
1…その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。
とある言葉で片づけているのですね。そして、今日の部分では、荒野から北上して約束の地に上っていくに当たって、戦うことを禁じた三つの部族のことが順に出て来ています。2節から8節で「エサウ」の子孫、エドム人の国が、8節後半から13節で「モアブ人」の地が、そして、17節から23節に「アモン人」の領土で、それぞれ争いをしかけてはならない、と命じられるのです。しかも、4節では、
「…彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。」
と、非常に強く念を押して、争いをしかけてはならないと諫められているのです。
裏を返せば、それだけ言わなければ、彼らは争いを仕掛けかねなかったのです。自分たちの勢い、数の力に相手が怯むのを見た時に、優越感をもって戦いかねませんでした。けれども、戦ってはならない、食物のためには代金を払わなければならない。そして、
7事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」
と主の恵み豊かな養いを振り返らせるのです。だから、今、主があなたがたに与えられたのではないエサウの領土を欲しがって、争いをしかけてはならないと言われるのですね。
これは、私たちの信仰生活の雛形(ひながた)に違いありません。キリストにあって私たちが救われて、神の国という約束を与えられて、旅をしているのがキリスト者であり、教会です。その途中にも、主は私たちを祝福し、見守り、本当に必要なものは何一つ欠けなく満たしてくださいます。でも、それなのに、その手前で周囲を見回し、与えられてもいないものを欲しがってしまう、ということがあるんじゃないでしょうか。主が十分満たしてくださっているのに、隣の芝生が青く見えてしまって、妬んだり、足りないものを数えたりし始めることがありませんか。主の祝福や御力さえも傘に着て、人の上に立とうという誘惑が、私の中にもあるのだなぁ、と痛感するのですね。
実際には、民数記の二〇章14節~21節を見ますと、エドムに使いを送り、あなたがたと戦うつもりはないから、ただ通らせてくれ、という交渉があったと分かります。でも、エドムはそれを拒んで、最後には軍隊で迎え撃とうとしたので、イスラエルは引き返したのです。そのため、回り道をしなければならず、疲れた民の間から不平が出るというエピソードもあったのです 。礼儀を尽くしても話が出来ませんでした。遠回りをしなければならず、時間も手間も掛かりました。それでも、自分たちに与えられたのではないことは、欲しがらない。戦ったら勝てそうでも、自分たちのものでないものを思い通りにしようとしてはならない。誠意が通じなくても、感情的にならない。そういうこととしてモーセは受け止め、申命記では主の御心として、ハッキリと民に語り直しているのだと思います。
言い換えると、主が私たちを導かれるのは、私たちが自分に与えられたものを感謝して受け止め、自分に与えられていないものを欲しがったり妬んだりすることを止めていく。そういうレッスンでもあるのでしょう。確かに主は全能です。何一つ出来ないことはありません。敵をことごとく打ち負かして、ご自身の民を世界の支配者にすることも不可能ではないでしょう。でも、主の全能のご計画は、もっと違う方向を見ています。「欲しいモノは何でも手にしたい」という欲望、支配欲とか子どもじみた野望から、私たちを救ってくださるのです。感情や相手の反応に挑発されたりせず、自制することが神の民には不可欠な品性です。自分に与えられていないものを貪ろうとせず、自分に与えられたものを心から感謝し、そして、本当に戦って勝ち取るべきもののためには、勇気を奮い起こして立ち上がっていく。そういう道を、主は示されるのです。
二つ目のモアブとの戦いを禁じる際、10節以下に「エミム人」が住んでいたと書かれています。アナク人、背が高い、レファイムという言葉が出て来ますが、巨人のような強い民がいた、とあります。でも、エサウの子孫が彼らを追い払った、というのですが、
12…ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。
とあります。次のアモン人の所でも20節以下に、レファイムが住んでいたとありますが、
21これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。
と言うのですね。
イスラエルの民は三八年前、約束の地の手前まで来ながら、そこに住んでいた民が、
一28…「…私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天までそびえている。しかも、そこでアナク人を見た」と言って、…心をくじいた。」
のでした。自分たちには無理だとふて腐れたのです。そしてその世代の戦士たちはみな、三十八年の間に絶やされたのです。そして主はここで、エドム人もアモン人も、アナク人たちと戦って、彼らを打ち破ったことに言い及ばれるのです。周辺の国々の歩みも、主の手の中にありました。彼らの歴史にも、戦いがあり、勇敢があり、犠牲もあったでしょう。エドムやアモンも主からその土地を与えられ、彼らの物語があり、犠牲を払い、恐れずに自分たちに与えられた地を勝ち取りました。彼らにもまた、主の御手があり、与えられた場所、歩み、見ならうべき努力があるのです。決して他者を美化する必要はないのですが、そこからも学べることはあるし、どんな相手にも敬意を払うべきことはあるのです。
私たちの目指す約束の地は「神の国」です。主が聖なる恵みによって私たちを治めてくださる、ということは、自我や傲慢が砕かれること、罪赦されて、人の罪をも赦し、すべての重荷を下ろすこと、正義や平和のために恐れずに声を上げていくこと、どんな時も主への信頼と希望をもって生きる事、などに現れるのです。私たちの努力や気の持ちようでそうなることは出来ません。主イエス・キリストの恵みだけが私たちを変えるのです。その恵みによって、私たちは変えられて、新しくされ、妬みや苛立ち、臆病から救い出されて、感謝と勇気と希望に生きるようにと招かれています。与えられていないもの、余所(よそ)様(さま)のものを妬んだり僻(ひが)んだりするのは止めたい。主が私に下さろうとしているのは何であるかを聴きながら、それを信じるよう私たち自身が変えられていくことを願っていくのです。
「成長させてくださる主よ。深い恵みを疑って、なくてもよいものに心を奪われやすい者です。どうぞ、私たちに約束してくださった測り知れない祝福に、心を向けさせてください。教会の外にも美徳や頭の下がることは沢山ありますから、謙ってその善き所を学び、励まされながら、イエス様の贖いにますます預かって、成長させていただけますように」
文末脚注
1. 民数記二一4。これが、あの「青銅の蛇」に至る事件となりました。
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