聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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申命記一章34~46節「向きを変えよ」 (#320)

2014-07-26 20:44:38 | 申命記

2014/07/06 申命記一章34~46節「向きを変えよ」 (#320)

 イスラエルの民が、奴隷となっていたエジプトを脱出してから、四十年後、約束の地についに入ろう、という時、モーセが民に語って聞かせた、最期の遺言説教がこの「申命記」です。エジプトを出た翌年、既に一度、このカナンの手前まで来ていました。しかし、彼らはそこで、カナンの地を占領していた人々を恐れて、入って行こうとしませんでした。

27「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。」

とまで言い合うほど、不遜でした。モーセの説得と叱責にも耳を貸さなかった彼らに対して、遂に主が言われたのが、今日の言葉でした。

35「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしがあなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。」

 二十歳以下の者だけが約束の地に入る。主に従い通したカレブとヨシュアも入ることが出来る 。モーセも入れない。(この辺りは、民数記の記事に詳しくありますが、モーセはあえて大胆にまとめて語っています) 。主の厳しく、大胆な方針変更が宣言されます。

 これに対して、イスラエルの民はどんな反応をしたのでしょうか。

41…「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」

 一見、これは悔い改めて、主に従おうとしたかのようです。ハッと気がついて、やり直そうとしたかのようです。でも、そうではありませんでした。既に、主は、

40あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

と命じておられたのですね。民は、この新しい命令を無視して、反古になった言葉にしがみついただけです。「マズい」と思っただけです。だからモーセの評価もこうです。

41…向こう見ずに山地に登って行こうとした。
42…主は私に言われた。「彼らに言え。『「上ってはならない。戦ってはならない。…」

と明言されたのに、なお、

43…あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。

 そして、散々な返り討ちに遭って、追い散らされて帰って来て、それ以来、40年、荒野での生活を続けてきたのでした。それが四十年ほど前の事ですが、今、モーセはもう一度その時のことを思い出させて、主に従うことを民の心に刻みつけようとしています。

 民の不従順を主は確かに怒られました。また、民が後悔して戦いに登っていこうとするのを、主は受け入れられませんでした。でも、それは怒り狂って、民を見捨ててしまったわけでもありません。民の健気(けなげ)な反省にも耳を貸さず、民の幸せを取り上げてしまって、四十年の「呪い」で罰せられ、自分たちの犯した過ちの大きさを思い知らされた、ということでも決してありません。勿論、民は自分たちの犯した罪の重さを知らなければなりませんでした。それが分かっていないから、ここでも表面的な悔い改めを口にしながら、実際には罪の上塗りをして、向こう見ずに攻撃に出て行って、惨敗に終わったのです。また、この時モーセがこの事実を思い出させているのは、民がこの事実を心に刻みつけて、どんな形でも主に背いたり、御言葉に従うことを軽々しく考えてしまったりしないためです。けれども、それは決して、あのとき呟いたせいで四十年間を台無しにしてしまったではないか、と過去を蒸し返しているのではないのですね。主が、

40あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。

と仰った時、民がその悪い心を悔い改めるとともに、そこに新しい歩み、大切な歩みを備えてくださっていたのです。42節で、向きを変えることを拒んで戦いに行こうとする民に対して、主は言われます。

 上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。…

 逆に言えば、向きを変えて、荒野への道を行く民のうちに、主はともにいてくださる、ということでした。もっとハッキリ書かれているのは、二7です。

「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」

 荒野は厳しかった、試みだった、という言葉もあります 。でも、そこでも主がともにいてくださって、守ってくださったではないか、とモーセは繰り返しても言うのです。荒野の四十年は、願いとは逆の時間でした。歩まなくて済んだはずの長い長い回り道でした。ヨシュアとカレブ、また、この時の子どもたちから言わせたら、自分たちのせいではなく、四十年もの巻き添えを食った、割に合わない無駄だとも言いたかったかもしれません。でも、そこにも主は彼らとともにおられ、祝福しておられたのです。悔い改めるとは、

…向きを変え…

ることです 。自分でよかれと思ってきた道から、主に向き直るのです。それは荒野への道でした。でも、主がともにいてくださいました。過去は変えられませんが、過去をしっかり受け止めて向き直る歩みを、主は導いてかけがえのないものとしてくださるのです。

 私たちも、生きていればたくさんの失敗をします。つい感情的になって取り返しのつかないことをしてしまうこともあります。自分のせいでなく、周囲の人の軽率な行動によって、巻き込まれてしまうことも少なくありません。いずれにせよ、過去を変えたり、やり直したりすることは出来ないのですが、そこから向きを変え、進むべき道に進むことを主は命じられます。その悔い改めから新しく歩み始める道には、主がともにいて、深い祝福と見守りを用意しておられます。主イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかってくださいました。神の怒りをご自身の死によって、私たちの代わりに受け止めてくださいました。でも、私たちに代わって悔い改めてくださる、ということはあり得ません。むしろ、私たちが、自分の非を認めて、悔い改め、負うべき責任を、誠実に、出来る限り負いながら生きるようにと教え、育て、導いてくださいます。悔い改めた罪や償おうとしている失敗を、主はいつまでも責めるお方ではありません。だから、私たちも後悔を引き摺るのではなく、悔い改めから始まる御業を望み見て、進むことが出来るのです。

 呟いたり疑ったり、そうかと思えば、御言葉を勝手に掲げて向こう見ずに飛び出したり。そんな私たちをも導いてくださった主だと気付くからこそ、その主を疑ったり、不都合な御声に耳を閉ざしたりすることはもう止めなければならないのだ、と教えられるのです。

「真実な主よ。勇気と素直さを与えてください。何をすべきかを正しく判断させてください。毎日の些細な選択において、優柔不断になったり、感情に流されたり、責任から逃げようと、とりあえず楽な方を選ぶ誘惑から救って、主とともに歩む道を選ばせてください」

文末脚注

1 民数記十四29「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。」
2 民数記二〇1-13、参照。
3 申命記一19、八2-4など。
4 新約聖書の原語ギリシャ語の「悔い改める」(メタノエオー)の原意は「方向転換」です。メタノエオーに対応するヘブル語のシューブは「戻る、立ち返る、立ち帰る」を原意としています。

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