古きもの。どこか懐かしい記憶の底で眠るもの。
しばらく忘れていたのに ある日突然 ひらりと舞い降りてくるような そんな偶然を装って。
なんていうのか 名前さえ思い出せない昔のことでも 触ったことのあるような。
そんな不思議なココロの触感を感じるときがある。
古いものには その微かな色香が漂う。そこに確かにわたしは存在していないのに。わたしより遥か遠くで息づいていた人の手によって生まれたものなのに。わたしとその人がふっと近くなる その瞬間がたまらなく好きだ。
同じ人間なのにどうしてこうも違うのか。この手とあの手はどうしてこうも違うのか。芸術品と呼ばれるものを目にしたときに感じる落差に いつも悲しみさえ覚えるが、それでもこの世にこれが存在してくれたというだけで嬉しくなる。自分には到底無理なそのものに 憧れを抱く。
ところで わたしの好むところの物に全然興味がわかないという方もいる。世の中はうまくできたもので、かたや古きものに興味深々であり、かたや最新のものに興味深々であるという それが上手く調和できているのは 同じものを好む人間ばかりだと その後に形成されていくべ世の中が単調なものとなってしまうから ほどほどに好みの違いがたくさんあって 面白いのだと思う。
多面性のある人間だから、全部すっかり好みが同じなんて人はそんなにいない。わたしがあれを好きで これも好きで・・・と話しているときに あーそれ!わたしも好き!なんて言ってくれる人もいるが、ばっちり好みが同じとは限らない。だから話題の幅が広がるのだろう。もっとも相手を好ましいと思っていればこそ 自分の興味の範疇になくても話を聞けるのであって、これが相手に不快感を抱いている時だと 話を聞くのは辛いところがある。わたしに限っていえば ほとんどの話を聞くのは好きだ。ただあまり自分が話題の中心になっていないと気が済まないという方とご一緒するのは遠慮したい(笑)
話が逸れた。
古いものを手にしたときに感じるのは「あたたかさ」かな。
そのもの自体は 温度が高いというわけではないのに 触れたとき 見たときに感じるココロの体感。そこにあるのは自分の中にある過去や自分が存在していないはずの昔だ。人間は目覚めたときに体の細胞が新しいものに入れ換わっているのだと村上先生が書いておられた。それが生きている証拠なのだと。わたしの中の細胞が古いものにリンクする。一瞬 細胞に沁み渡っていく時間。
目の前にある古いものは はたしてどんな人が手にしていたのか。どんな人の手から手へ渡されてきたのか。
※※※
昔 お世話になった教頭先生。かなり前に亡くなってしまわれたと風のうわさで聞いたが、よくわたしに言っていた。
わたしはねぇ、小説家になりたかったんだよ。今でも書いているよ。今度ぜひ○○さんに読んでもらいたいなぁ。わたしが好きなところはね、駅の待合室なんですよ。あそこはいいですよ。いろんな人間がいる。通りすがりの人や じっと列車を待っている人を見てると あぁこの人は家族が帰るのを待っているんだなとか、これから長旅に出るんだなとか 色々想像できて面白いんですよ。君もやってみてごらんなさい。
そうですか・・・ときどき言われたことを なんとなく思い出すことがある。その先生は 駅に集まる人々を見て想像する。わたしは人より物を見て想像する。その違いはあれど 想像するというのは楽しい。
で、その先生、もう時効だから書くけどね、机の引き出しにポケットウィスキーをしのばせていて 放課後なんか誰もいないとちょびっと飲んだりしててね。結局 読んでほしいと言われた小説を読むことなく 去ったわけだが、その数年後に亡くなられたから まだ亡くなるには若かっただろうな。
どんな小説だったのか、今となっては知るよしもないけど。
※※※
古きもの。その良さを思ってなのか 古いものを捨てきれない。というか単に片付けが下手ということだ。本当に必要なものだけを残しておけばよいものをこれはいつか使うだろう これは作るときに必要になるから・・・なんて その作るときを一瞬想像して すでに出来上がった物を頭に描き、出来たつもりになる。押し入れにしまいこんだら 後 しまいこんだことすら忘れている。
古いもの。数年前ぐらいのものは処分したほうがましだ。
古きもの。かなり前のものは 捨てがたいが、それも処分してもいいだろう。
古きもの。アンティークは 捨てれない・・・
わたしがいなかった時代を想像させるもの そこにわたしはいないけど捨てることができない。
あー無性に「なんでも鑑定団」が見たくなってきた♪
しばらく忘れていたのに ある日突然 ひらりと舞い降りてくるような そんな偶然を装って。
なんていうのか 名前さえ思い出せない昔のことでも 触ったことのあるような。
そんな不思議なココロの触感を感じるときがある。
古いものには その微かな色香が漂う。そこに確かにわたしは存在していないのに。わたしより遥か遠くで息づいていた人の手によって生まれたものなのに。わたしとその人がふっと近くなる その瞬間がたまらなく好きだ。
同じ人間なのにどうしてこうも違うのか。この手とあの手はどうしてこうも違うのか。芸術品と呼ばれるものを目にしたときに感じる落差に いつも悲しみさえ覚えるが、それでもこの世にこれが存在してくれたというだけで嬉しくなる。自分には到底無理なそのものに 憧れを抱く。
ところで わたしの好むところの物に全然興味がわかないという方もいる。世の中はうまくできたもので、かたや古きものに興味深々であり、かたや最新のものに興味深々であるという それが上手く調和できているのは 同じものを好む人間ばかりだと その後に形成されていくべ世の中が単調なものとなってしまうから ほどほどに好みの違いがたくさんあって 面白いのだと思う。
多面性のある人間だから、全部すっかり好みが同じなんて人はそんなにいない。わたしがあれを好きで これも好きで・・・と話しているときに あーそれ!わたしも好き!なんて言ってくれる人もいるが、ばっちり好みが同じとは限らない。だから話題の幅が広がるのだろう。もっとも相手を好ましいと思っていればこそ 自分の興味の範疇になくても話を聞けるのであって、これが相手に不快感を抱いている時だと 話を聞くのは辛いところがある。わたしに限っていえば ほとんどの話を聞くのは好きだ。ただあまり自分が話題の中心になっていないと気が済まないという方とご一緒するのは遠慮したい(笑)
話が逸れた。
古いものを手にしたときに感じるのは「あたたかさ」かな。
そのもの自体は 温度が高いというわけではないのに 触れたとき 見たときに感じるココロの体感。そこにあるのは自分の中にある過去や自分が存在していないはずの昔だ。人間は目覚めたときに体の細胞が新しいものに入れ換わっているのだと村上先生が書いておられた。それが生きている証拠なのだと。わたしの中の細胞が古いものにリンクする。一瞬 細胞に沁み渡っていく時間。
目の前にある古いものは はたしてどんな人が手にしていたのか。どんな人の手から手へ渡されてきたのか。
※※※
昔 お世話になった教頭先生。かなり前に亡くなってしまわれたと風のうわさで聞いたが、よくわたしに言っていた。
わたしはねぇ、小説家になりたかったんだよ。今でも書いているよ。今度ぜひ○○さんに読んでもらいたいなぁ。わたしが好きなところはね、駅の待合室なんですよ。あそこはいいですよ。いろんな人間がいる。通りすがりの人や じっと列車を待っている人を見てると あぁこの人は家族が帰るのを待っているんだなとか、これから長旅に出るんだなとか 色々想像できて面白いんですよ。君もやってみてごらんなさい。
そうですか・・・ときどき言われたことを なんとなく思い出すことがある。その先生は 駅に集まる人々を見て想像する。わたしは人より物を見て想像する。その違いはあれど 想像するというのは楽しい。
で、その先生、もう時効だから書くけどね、机の引き出しにポケットウィスキーをしのばせていて 放課後なんか誰もいないとちょびっと飲んだりしててね。結局 読んでほしいと言われた小説を読むことなく 去ったわけだが、その数年後に亡くなられたから まだ亡くなるには若かっただろうな。
どんな小説だったのか、今となっては知るよしもないけど。
※※※
古きもの。その良さを思ってなのか 古いものを捨てきれない。というか単に片付けが下手ということだ。本当に必要なものだけを残しておけばよいものをこれはいつか使うだろう これは作るときに必要になるから・・・なんて その作るときを一瞬想像して すでに出来上がった物を頭に描き、出来たつもりになる。押し入れにしまいこんだら 後 しまいこんだことすら忘れている。
古いもの。数年前ぐらいのものは処分したほうがましだ。
古きもの。かなり前のものは 捨てがたいが、それも処分してもいいだろう。
古きもの。アンティークは 捨てれない・・・
わたしがいなかった時代を想像させるもの そこにわたしはいないけど捨てることができない。
あー無性に「なんでも鑑定団」が見たくなってきた♪