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心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

困った・・・

2016年08月26日 | ほんのすこし
あることを確認したくて、以前のメール履歴を調べていた。
するとぽっかりとその人とのメールのやりとりが消えていたのだ。ほんの一カ月の間の部分が。
自分でどのフォルダに保存したのかさっぱり思いだせないが、ちょうど新しいパソコンを購入した辺りかその前ぐらいのときのやりとりだ。

でも一通も無いというのは変じゃないだろうか。
まるで狐にばかされたような気分でいる。

そんなにやりとり自体の回数は多くは無かったが、今、あることで確認をとりたかったのだ。
う~ん、困った困った。

こういう不思議なことが起きると、かなり気になって眠れなくなってしまう。
相手の方が何か不愉快なことがあって削除した?
いや削除してもこっちのパソコンには残るでしょ。
う~ん、ちっともわからない。

あぁ、今夜は眠れそうもないわ。

・・・ といいつつ、しっかり寝る算段をしているわたしですが(笑)。

明日は晴れてくれるといいな。雨だと部屋にこもるしかないので、三人三様にストレスがたまるのですよ。

それにしてもメールよ、どこ行ったあ?


今日出会ったことば

2016年08月26日 | 朝のことば&つぶやき
今日、目にとまった記事。

武井壮「遅咲きブレイクできた理由」に称賛の嵐!

「仕事も無くてトレーニング以外ゴロゴロしてた時期は“オレにだってチャンスが来ればやれるのに。”なんて人生が何も動かなかった。。ゴロゴロすんのを止めて街に出て人に会いに行って話を聞いて、勉強して毎日誰より成長しようと動いたらゴロゴロチャンスがやってきた、まずは自分からだ、常にな。。」
とツィッターでつぶやいたのだそうだ。
わたしはツィッターをしていないのでわからなかったけど、ニュースで知った。
以前から彼のことは気になっていたので、ついどんな話なのかと興味を持ったのだ。
前に彼が少林寺の鍛錬のために三日間という短い間ではあったけど、中国に行って修業するという番組があった。そのときの彼の真剣な思いにこの人は真面目な方なんだなと感じた。それ以来ますます彼のことは気になっている。

その彼の言葉だった。
経験に基づく地に足のついた言葉だ。
変わるためにはまず自分から行動していかなければ何も起きない。考えるだけで行動に移さないわたしには耳の痛い話。でもどこかでわかってはいるのだ。これまで自分から行動に移していったとき、変化が訪れた。それは小さいことだったり、思いがけないことだったりしたけど、その都度自分なりにやってきたけど、どこかでひ弱になっている自分がいて、さらにどうせ自分なんかやってもダメだろう、なんて思ってしまう部分が大きかった。

誰もやっていないことをやるからやってみなくちゃわからない。そう思って飛び込んだ彼の潔さ。
簡単なことなら誰もやるし、みんなやってるからそこから抜け出すことは容易ではない。彼の特別はやはり他の皆と違う特別なんだなと思う。日々の鍛錬のすごさもあっただろうし。でもそれだけではなく、精神的なもの、人生を納得いくように変えようとする意欲があったということだと思う。

何かを成す前からすでに諦めているような、そんなところが最近は多かった。
ここらで一発、自分に活を入れなくては!
「自分から」動く。
よし!!

※※※

朝日も夕焼けも、わたしを励ますには十分な存在だ。
(アクリル画)

※※※

言葉の印象

2016年08月26日 | ほんのすこし
今日、わたしが登録しているメールマガジンが届きました。その中で、読者からのメールに答えている部分がありました。
読者は「後期高齢者」にとうとうなってしまったというちょっと残念な気分を書いていましたが、それに対して
「75歳からを「後期高齢者」と呼ぶなんてひどい差別ですね。(笑)「前期高齢者」もどうかと思います。
せめて気分は「後期青年者」か「前期革命者」ぐらいでいきましょう。」
という答えが書かれていました。

第一線で働いている読者の方への応答です。

後期青年者、者という文字が青年とだぶる感じで気になりますが、青年という言葉の若々しい雰囲気が人生発展途上だということを匂わせてくれるように思います。
前期革命者、革命とはまた急に大きくでたなあと思いましたが、こんなネーミングを考えつく人はいなかったのではないかと思います。

行政が決めた言葉を自分なりにすり替えて考えてみるのもまた面白いものがあるということに気づかされました。
この後期高齢者という言葉が出始めた頃には、色々な非難の声もあったようですが、今は定着してしまいました。初めに後期青年という言葉が生まれていたら、年をとるのもまた良しとする雰囲気もあったのかな。
お固い行政でちょっとした遊び心が加わっていたら、世の中も案外楽しい雰囲気になる気がします。
でも行政の真っただ中で仕事されている方にとっては、そんなこともってのほか! でしょうねぇ。

言葉の印象といえば。
孫はただいまおしゃべり上手になっていて、大人が話したり、DVDで見たりした言葉をいつのまに覚えたの? というほどそのシーンで、ひょいと使っています。
大人が舌を巻くほどです。
そんなたまちゃん(孫の愛称です)が、最近、「○○○さまぁ」と呼ぶことが多々あります。
おかあさまぁ、然り。おばあさまぁ、然り。
突然そう言われた最初はどぎまぎしました(笑)。あまりにも現実からかけ離れた言葉だったからです。娘とふたり顔を見合わせたほどです。
ちょっと笑って「なんでしょうかぁ」と言うのですが、一体どこでそんな言葉づかいを覚えたのでしょうね。
全く上品な言葉を使う暮らしからは思いつかないのですが。
きっとアンパンマンの話にでも出ていたのでしょう。

ときどきわたしはおばあさまぁ、娘はおかあさまぁ、になり、「これ、使っていいでしょかぁ」「・・・見たいんですけどぉ」と聞かれます。
よく見て見ると、孫の言葉づかいは荒い言葉がなく、大人よりも綺麗な言葉を使っているように思えます。娘は東京で通っている保育園の先生たちが良い言葉を使っているからじゃないかなと言います。そうですよね、娘もわたしも母も方言まるだしで話していると、孫はきょとんとしていますから。そして自分にわからない言葉ばかりが交わされると無視されたと思うのか話を止めに入ることがあります。
逆に孫がわかる言葉で会話していると、ときどき話に割り込んで
「それって、たまちゃんも見たんだもね~」とか言いながら誰かが「そうだよね」という受け止めをしてくれるとまた自分の遊びに入っていきます。

一緒にいる空間で、ひとりがわからない言葉で会話しているというのは寂しいもの。
孫の様子はそれを極端に物語っているように思います。
幼い子供だからといってわからないだろうと高をくくっていてはだめなのですね。子供に知られたくないことや、聞かせたくないことがあったら、子どものいないところで話す、それが一番でしょうし、わたしたちもまた孫のような綺麗な言葉で話すほうがいいってことでしょうね。ついつい方言が出てしまうのです。母に至っては曾孫に標準語で話そうとすると逆にこんがらがって何を話したいのかわからなくなってしまう、なんてこともあるようです(笑)。

あらら、後期高齢者の話が二歳9カ月の子まで飛んでしまいました。
またまた、とりとめのない話になってしまいました。