旧山陽道大山峠を下った瀬野川にこんな
説明看板が設置されます。
画像の刀は私が所有している天正八年
(1580年)作の安芸国の刀工作です。
434年前に私の刀が造られたその鍛冶
屋敷跡に、この説明板が立てられるとの
ことです。
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私は不勉強でよく知りませんでした。
中世の安芸国の刀工群である大山鍛冶
の鍛冶場付近には、鉄穴流し(かんなながし)
だけでなく、鉄鉱石採掘遺跡も多くあるよう
です。
そして、大山鍛冶が作る刀は、地元で産出
した鉄鉱石や砂鉄などの磁鉄鉱を原料と
して作刀していたとのことです。
民間郷土史研究者は、地域の歴史について
かなり突っ込んだ調査をしているので、
なかなか興味深いものがあると同時に、
地元民間研究者の方々の力量には敬服
します。
学究部門では、中央学術権威筋は民間の
研究者を「脇もの」だとか「在野」として排除
する傾向が著しいのですが、現場のフィー
ルドワークにおいては、在野の地元郷土史
研究者には目を見張るものがあることも
確かです。
ただ研究室で学者が史料・資料をまとめた
だけでは、根源的な実のある学術的成果
は得られないように私は思います。
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う~む。この地図はいいわあ。
製鉄遺構から出土した鉄滓(かなくそ)は、
盆栽に丁度良いとのことで、地元の人が
多く持ち帰って盆栽に利用しているそう
です。
最低でも400数十年前の鉄・・・。
鉄滓とはいえ、私はそれが欲しい。
大山鍛冶は地元製鉄による刀剣材料
調達ということは判っているそうで、出土
する鉄滓は434年前に私の刀が造られた
その刀の原料の残滓の一部かもしれません。
う~ん、ほしい(笑
私が子どもの頃は、聖域であるテレビの
上に白いレースの敷物が敷かれ、白銀色に
輝く玉鋼が置かれていました。
父はその玉鋼を宝物のようにしていました
が、私は安芸大山鍛冶の鉄滓がほしいぞ。
木炭製鉄というのは、砂鉄や鉄鉱石だけ
が採れても駄目なんだよね。
加熱燃料としてだけでなく、還元に必要
な木炭がないとならない。
大山鍛冶の場合は、産鉄者は近隣の山
の松で作った住を使っていたようだ。
三原鍛冶の鍛刀地や鉄原料供給元は
まったく不明だが、この大山鍛冶刀工群は
研究するとかなり面白そうな気がする。
当然炭焼き小屋も鍛刀地の近くにあったの
だろうし、なにしろ単に刀鍛冶がいただけ
でなく、近隣に鉄原料採集場所がいくつか
あって、それでたたら吹きで鉄を吹いていた
というのが興味深い。中世の同種産業が
この地域で行なわれていたことが判明して
いるというのは、どこで作刀したのか皆目
不明の三原鍛冶よりも面白い。
だが、この大山鍛冶(製鉄と刀鍛冶)から
類推すると、三原鍛冶も製品鋼が流通する
以前は、「松の木採取地」「地域的な木炭
製造条件」「砂鉄もしくは鉄鉱石が採取でき
る場所」ということも推定できる。
そうなってくると、(古)三原鍛冶の鍛刀地
はかなり内陸部であったことが想像できる。
斯界でノーチェックの三原市本郷にある
高山城および新高山城(小早川の居城)
付近が古三原鍛冶の比定地としても候補
にあがってよさそうにも思える。
私自身は、同地区に現在も残る「ちんこん
かん」という鬼祭りが、製鉄-鍛冶と密接な
関係にあったのではなかろうかと踏んでいる。
「『ちんこんかん』という名称の由来は
不明」とされているが、私は鍛冶仕事の
音のことではなかろうかと推察している。
そして、安芸国大山鍛冶を研究することに
よって、手がかりは散見されども現在全く
詳細が不明のままの古三原鍛冶の研究
も進むのではなかろうか。
備後刀(とりわけ三原派)は「大和色」が
強いとして、大和伝の流れとして見る向き
がこれまで一般的だったが、作のすべて
が大和風ではなく、備前・備中の技術的
影響もうかがえる。芸備地区の刀工群は、
ピンポイントで三原なら三原鍛冶だけを
考察するのではなく、東は備中から西は
周防の二王までを概括的に捉えて考察
する必要があるように私には思えるのだ。
作を見る限り、三原の刀がどうしても山城
伝も入っているように思えてならないという
私個人の疑問もある。「真言宗寺院の影響」
だけで片付けて「三原刀は大和伝」として
いいものかどうか(一般的にはそのように
括られるが)。
なにか違うのではなかろうか、という漠然
とした疑問が私にはあるのだ。
『郷土刀の系譜』(飯田一雄/2010年
初版/光芸出版)に、日本刀の生産地の
条件について備前刀の項で注目すべき
所見が記載されているので抜粋紹介する。
「そもそも日本の金属文化は紀元前三世
紀頃の西日本渡来を嚆矢とし、製鉄技術は
弥生時代後半(一世紀頃)に萌芽・普及した
とされ、やがて因幡、出雲、石見、安芸、
筑前などの国防最前線での必須技術として
刀剣鍛造が発展することになる。また、
伯耆、出雲、安芸、美作、備中、備後などは
良質の磁鉄鉱を含む花崗岩地積(その
風化地域は有望な鉄産地)だったが、備前
はたいした鉄産地ではなかった。ところが
備前は、吉井川という自然環境によって
奇跡的な開花を遂げたのだ。その上域から
砂鉄が豊富にもたらされ、背後の中国山地
からは鍛造に不可欠な大量の燃料(木炭)
が容易に入手でき、吉井川流域の水運に
よる生産効率性、その下流の製品販路
拠点(山陽道の要衝、瀬戸内海航路港)と
いった好条件に恵まれ、古備前をはじめ
質量に優れた備前ものを生みだし、世界
に冠たる貴重な遺産をのこすことができた。
また備前は、日本刀史にままみられる権力
者や地縁の庇護をうけずに繁栄した稀有な
例で、それが逆に中央貴族・高位高官・各地
豪族すべてを顧客とすることを可能にした
(大坂新刀の繁栄と同じ)。」(235頁)
中世最末期に「城下町」というものが登場
するまでは、日本刀の製作にあたっては、
近世江戸期の流通商品鋼を用いた鍛刀
とは異なる諸条件が確かに存在した。
近世日本刀造りと大きく異なる点は、それは
鉄産地に近い場所で鍛刀が行なわれた
という点である。
また、燃料補給に地の利がある場所、販路
拠点が近隣に存在することも中世日本刀
作りの好条件の要素であり、日本刀史の
中では稀有な例として、権力者や地縁の
庇護とは一線を画した場所で繁栄した「備前
もの」を例に取りながら飯田氏は日本刀
製作地の条件を指摘する。
但し、日本刀史で多くみられる「権力者の
庇護」という面に該当しない例として備前
刀を挙げているが、このことは大山鍛冶
一門についても該当するし、備後刀について
も「真言寺院の影響」というこれまでの一般化
された解法を除外すれば、「三原もの」も
これに該当する。(私は三原刀が大和伝
主軸であり、大和からの真言寺院の影響下
で備後三原派が繁栄したとする一面的な
見解には懐疑的である)
敷衍すれば、中世の刀工群のうち、多くの
一般的な生産地は「権力者の庇護」の下
にあるような場所であったが、備後三原
(という地名も地面もなかったが)、安芸大山
は、いうなれば、「辺鄙な場所」であり、鉄
原料採取地および産鉄地ならびに木炭生産
地域そのもので鍛刀が為されたという近世
とは決定的に異なる特筆的な性格を有し
ている。
このことが作刀された地鉄になにをもたら
したか、という知見と繋がる視点が、目下の
私の興味の核心なのである。
中世期と近世期で日本刀における鉄質の
変化は厳然として存在するが、そうした
遷移の背景は、政治経済史や民俗学的
解析との融合を目指さない限り本質性が
見えてこないという面があると思量するの
だ。
「なぜ日本刀の鉄質は中世末期から
近世初期にかけて変質したのか」、
「失伝した作刀技法とは何か」という、これ
まで多くの先人たち、研究者たちが追い
求めた日本刀探求における最大のテーマは、
一朝一夕にインスタント的な付焼刃で簡単
に理解が及ぶものでは決してない。
お手軽に答えが導き出せるならば、偉大
な先人たちがとうの昔に解答を得ている
だろう。
私自身の思惟としては、偉大な研究者
たち、先人たちでさえも明確な回答が導き
出せなかったのは、決して先人たちが暗愚
だからではなく、探求のテーマ自体にあまり
にも判断史料・資料・試料が少ないためで
あるとの所見が私にはあり、だからこそ、
研究のやり甲斐があるのであるが、日夜
真剣に研究に没頭した先達たちへの敬意
を捨象して、先人たちの研究功績だけを
簒奪して自己慢心して先人たちを睥睨
するような視点には研究者の良心は
一切皆無であると確信している。
第一、先人から知的利益享受を得ていな
がら、すべて己が単独で解ったように振る
舞う傲慢は、度し難く心根が貧しく賤しい。
現在に至っても日本刀に関する事案で、
判明していない幾つかの事柄は、そうそう
簡単にお湯を注いで出来上がりといった
具合には解明などされないのである。