渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

深淵

2014年12月13日 | open


(備中水田山城大掾源国重/家伝)

刀というのはいいよなぁ。
見ているだけで、心が落ち着いてくる。
人を斬るためにも造られた日本刀だが、もう人を斬ることは終了した。
だからといって、表面的な美的要素だけで惹かれるのではない。
われらが先祖から「伝えるもの」が備わっているからだ。
多くの人の思いと歴史の重みが一ふりの日本刀には入り込んでいる。

そして、単純に美しい。
ツルッペタのノッペリした金属と異なり、日本刀は美しい。
造るのは簡単ではない。いや、工法そのものは複雑ではないのだが、
非常に多くの注意を費やす工程抜きにしては日本刀は出来ない。
製法そのものは無駄が一切削ぎ落とされてとてもシンプルだが、シンプル
だからこそごまかしが利かず、製造には極めて神経をすり減らす。
ぼけ~っとしていては刀は造れない。
帯刀者という刀を帯びる人間の特性と、それに合致させるべく神経を
すり減らして造ってきた職方の魂が入っている。
そうして、日本刀は人の命を与る。
命に関わることの物象化の具現が日本刀だ。
日本刀を観る時、人と人の命のありかを抜きにしては観ることができない。
人の命のありかの具現だから美しい。
日本刀は、単純に即物的な視覚上の美など、それのみが独立して存立
しないのである。


大磨り上げ無銘古刀、二尺四寸一分二厘。
鉄味は私の安芸大山宗重と似ている。良い鍛えだ。桃山あたりか。
地肌はコスモワールドですね。良い。
というか、これ、大磨り上げで銘が消えているけど、作柄が大山宗重
にソックリなんですけどー。どいうこと?



こちら私の大山宗重。鎬付近の地が上記大磨上無銘と同じく、小さな華が
咲くように杢がかる。鉄の華だ。





私の大山宗重は三原ものに近いというよりも、二王に近い。
上掲の大磨り上げ無銘の刀も二王に観える。
鎬地がそれほど幅広くないこと、鎬地付近が白けがかること(杢
がかり白け映り風になる)、刃縁が潤むことにその特徴がよく出て
いる。肌はやや肌立つが地景、砂流しが入る。
総体としては、上掲の大磨り上げ無銘と私の大山宗重は兄弟刀
のように似ている。
ちなみに、両刀とも、なかごの厚みはかなりぶっとい。戦場刀だから
だろう。両刀ともに厚み8ミリ以上は優にある。元々はそれ以上の
重ねの刀だったということだ。
私のはウブなかごだが、磨り上げのほうは大磨り上げだ。
かなり
長大な太刀だったことだろう。なかごウブ穴の位置からすると、
元々の長さは二尺八寸近い長さが推測される。時代はやはり桃山
よりもかなり上がる
かも知れない。