渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

梅雨明け

2020年08月03日 | open



月と三原城

2020年08月03日 | open



今宵の月と三原城。
あすは満月。



焚火

2020年08月03日 | open


火は人間に不可欠。
焚火の炎は神聖なり。

三原は吉備の国

2020年08月03日 | open


今の人たちは「広島県」として一括りの
感覚を持っているようだが、三原は元来
吉備国なのである。
旧三原町は吉備国のうちの備後(びんご)
の西端にあたる。
新市町村制以降は三原市としてエリアが
拡大されて旧安芸国の地域も三原市とな
った。
三原とは、元々は江戸期には三原城の城下
だけを指した。糸崎でさえ三原ではなかっ
た。

地元の三原の市街地の人たちは、自分たち
が吉備国人であるという自覚は薄い。
しかし、明らかに吉備国人の気質を持って
おり、これは安芸国のそれとも異なる。
同じ広島県でも東部と西部と北部では
完全に文化も言葉も異なる。
民俗学的には「広島県人」だけでは括れ
ない歴史性が存在する。
江戸時代の幕藩体制によってそれは多少
希釈されたようではあるが、言葉の違い
はかなり人間の思考形成に影響する。
文化圏毎の言語が異なるのは万国共通だ
が、その言語とリンクする土地柄によって
土地の人柄も集団的に形成される。
こればかりは、幕藩体制がいくらそうした
地方色を解消させて藩毎の統一を図ろうと
しても、古代から連綿と続く土地の文化や
風俗という民俗的な要素は消滅しなかっ
た。
藩を運営する武士階級などは漂泊の階級で
あり、幕命があればすぐに別な土地に藩士
まるごと移住する。
また、見知らぬ土地に別場所から武士団の
集団が大挙入封(にゅうほう)で移住して来
る。
薩摩のような特殊な例を除き、武士に土着
性などは存在しない。せいぜいその所領の
安堵を許されても、たかだか200年程、代
にしてたった7代程その土地に住んでいる
だけなのだ。
武士に故郷は無い。
命あらばいつでも別な見知らぬ土地に集団
で転住しなければならなかったからだ。
広島藩のように、備後国と安芸国の二国
統治という例は珍しいのである。

しかし、一方で、やや広域エリアである
国別でみた場合、ある特性もみられる。
広島県は、広島藩(安芸国と備後国の
西部)、福山藩(備中国西端と備後国、
現福山市)と一時期三次藩が存在した。
地方の土地柄や人柄は土着文化に依拠する
ので、地方の文化性に武士は関与していな
い。
人民の土着文化は藩政を凌駕する。
これは質性としてはそれが貫徹されている
のだが、各地の地方文化は極小の地区エリ
アからその周辺部分へと同心円的に広が
り、それが各地で複合的に交差してきた
のが日本全体の文化圏形成の特質として
みられる。それに旧幕藩体制の藩割りは
行政上の区分措置だけにしか寄与せず、
近い地域は似たような部族語のような
言葉を話し、また、生活習慣などもそう
したエリア性に強く依拠していた。藩政
はそれを取り払うことは、政治向きの
御政道としての統治面においてしか手を
つけられなかったのである。

三原が古代吉備国であることを現三原人は
自覚が薄いが、人的質性は非常に岡山、
倉敷、井原、福山と似ている。というか
ほぼ同質だ。
歴史を俯瞰するに元々が吉備国で同国人
だったからだろう。
土着的人的質性は1500年の歴史を持って
いるので、武士勃興以降に、たまたま領主
となった武家がどうこうしようとちょろ
ちょろ手を出しても動じない。
人に変化無しであることは現代にも存在
する「土地柄」によってその強烈さは明白
だ。

また、いくら戦後民主主義の時代になって
から、全国的な人的規範を共通化させよう
としても、それは本質的な部分では貫徹
不可能だ。
何故、未だに日本人は方言という、その
極小エリアでしか通用しない言語を使って
いるのか。
それは、それが良いものだ、と考えている
からだ。地方に行くと、まるきり方言を
常用語としているローカルTV局もある。
まるで、その言語以外を話す人々を排除
するかのように。
そのようにして、人と人のコミュニケー
ションツールであるべき「言葉」を21世紀
の今でも日本人は使っているのである。

国民全体が意思疎通不能では困るので、
明治新政府時代に初めて日本国内で標準語
が軍事統治の為に作られ、それを国民にも
教育して、以て日本言語は「日本語」とし
統一された。形の上では。
しかし、文化形成、人的資質形成の重要
な幹となる側面においては、日本は全く
統一されていない。
日本国民が同国人として統一しようなど
という気が全く微塵たりともないからだ。
だから、極小エリア唯一主義を良いものと
して今でも方言を使う。自分たちだけと
いう狭いエリアでしか通用しない言語を
進んで使う。それを解せぬほうが悪いと
ばかりに方言を使う。
それが当たり前であり、そのほうが感性
としてもしっくり来るからだろう。自分
たちだけは。
そこには、人と人の交流や意思疎通を
しようなどという気は毛頭無い。
ある程度、自覚的意識性を持たないと、
日本人を同国人として扱うコミュニケー
ションツールとしての言語は使えない。
無自覚なままだと、自分たちの狭いエリア
でしか通じない部族語のような言語を日本
人は今でもごく普通に常用するからだ。

わかりやすくいえば、例えば、男女の仲
でも、「いいわ」と言われるよりも「ええ
よ」と言われるほうがドキンと来たり、
「だめ」と言われるより「いけん」とか
「あかん」とか「いけず」と言われるほう
がビビっときたりするその感性の違いは
何に依るのか、という問題だ。
東京で女の子がすねて「ばか」と男に
小さく言ったら可愛いが、これが大阪な
ら「馬鹿とはなんや?!」となりかねな
い。東京で「いけず」と言われても、
「なんだそれ?かわずの親戚か?」と
なりかねない。
つまり、使用言語により日本人は各地で
バラバラに感性が形成されている厳然たる
事実があるのである。
それを統一などはできない。
統一できるのは、行政上の案件や、教育
上の事項、国全体の社会規範としての
基準の定めと教育措置だけであり、各地
でバラバラの人的質性までは絶対に変える
ことも改善することもできない。
その土地柄は未来永劫その土地柄であり、
人的質性に変化は起きない。
ある地方で常識とされている気風が実は
全国区ではとんでもない非常識であって
も、そのある地方の人たちはおかまいなし
だ。それが自分たちの常識なのだから。
時にそれは、人的質性としての土地柄の
人柄を集団的に規定して行く。
一例を出せば、酒が飲めないのは男では
ない、というように見なす土地は全国各地
にある。
また、それと似たような質の例は枚挙に
いとまがない。
残念ながら、それらは一切今後も変化は
無いだろう。
土地柄の土着性は1500年変わらなかった
し、幕藩体制や明治新政府の政策や戦後
民主主義の時代の教育開始から75年過ぎ
ても変化無しなのであるから、今後も変化
はみられないことは明らかだ。
地方特性は「良いものだ」として、その
地方性を全面的に諸手を挙げて自ら助長
しているのが日本人なのだから、この先
人的質性などは変化しない。日本はバラ
バラのままだ。
上部構造は下部構造により決定するとする
マルクス主義は、極めて一面的で機械的な
解析しかでき得ていないという限界性が
あることを地方に転住して実際に暮らして
みると、痛いほど強く感じる。

備後国と安芸国の国境は県立広島大学の
キャンパス下の坂道にある。




龍王山と竜王山

2020年08月03日 | open
 
広島県三原市内には竜王山が二つある。
一つは安芸国竜王山でもう一つは備後国
龍王山だ。
安芸国竜王山は瀬戸内海国立公園にあり、
風光明媚な瀬戸内海の景色が見られる
観光エリアとなっている。
備後国龍王山は古代にあっては鉄の産地
で、古代山陽道においてそこに駅家(うま
や)がなければならない地点なのに、なぜ
か記録上からは駅家が消された地区だ。
現在のところ日本最古の製鉄炉とされる
遺跡がある。弥生時代の遺跡。
御調(みつぎ)という古代郡(こおり)のエリ
アにあるが、御調とは貢ぎ物のミツギで
あり、租庸調の調のことであろう。
この備後国御調は、ヤマト中央朝廷への
納税は鉄が米に代わって納められていた。
代用ではなく、むしろ積極的に鉄こそを
古代王政は求めたことだろう。



この龍王山エリアから古代山陽道を駅家
一つ分西に進んだ眞良(しんら)という
駅家
があるあたりの地区から南は
古墳群のある地帯となる。
現在でも真良という字名が残っている。
そこは赤土の山が多く、砂鉄製鉄以前の
ベンガラリモナイトによる超古代製鉄の
製鉄原料が豊富な地区だ。
その眞良地区から今の本郷、沼田(ぬた)
西、沼田東、長谷(ながたに)一帯が
古墳
群地区となる。
ちなみに沼田(ぬた)は古くは渟田と書い
た。語音のヌは古代語だろう。北部には
甲奴(こうぬ)という地区があるが、
三原のヌタは奴田であったかも知れ
ない。

眞良エリアには今でもソブが見られる。
これから赤土製鉄=ソブ製鉄が行われ
たことだろう。(撮影:私)


古代山陽道の龍王山地区にあっただろう
(距離の規定からなければならない筈の)
とされる謎の駅家がなぜ記録から抹消され
ているのかは不明だ。
このエリアから本郷沼田地区にかけての
地域こそ、日本の古代製鉄と古代王政統制
史の秘密が隠されている。
しかし、学術調査のメスが入れられる事
は無い。
理由は、何か現地調査ができない現代的
な問題が発生しかねないセンシティブ
な何らかの
素因があるからかも知れない。
 
古代記録に見られる「柞原(みはら)」の
地区は、このあたりかも知れない。
柞はクとも読め、クハラとは木々が生茂る
地帯を指す。
このエリアは木炭製鉄に必要不可欠な松の
山林となっている。
三原の名は「三つの原が合流する地区」
を指すとするのであるならば、それは
現三原城ができて地面が海上に誕生した
中世最末期までは「三原」の土地は無かっ
たことになる。
実際、現実的には現三原城エリアには地面
は無く海だった。三つの原とされる谷は
海で途切れて繋がってはいなかった。
ゆえに行政が地名由緒を説明するように
「三つの原が集まって三原」とはならな
い。
和名抄には備後国御調郡には柞原郷があ
り、柞原はミハラと読むと書かれている。
その柞原のエリアは現在の「西野、三原、
糸崎、吉和、栗原、尾道、美郷、木之郷、
原田、菅野、深田、山中の地域を含むもの
と推定される」と『三原昔話』では比定
している。
 
三原の表記の登場は中世以降であることは
文献上は間違いない。出てこないから
だ。
その中世以降の「三原」は、まさに「湧原
(和久原)、駒ケ原(高麗が原、もしくは菰が
原か)、小西原の三つの川の流れ出た場所
に誕生した土地、という意味を構成する。
それが原初としての「柞原」と混同融合
したのだろう。
古文書「西野村書上」には、小西と大西
との出口に三原詰という地点があり、ここ
が中世三原の西端となる。
さらに、この地の旧家には山田氏があり、
家の記録では「三原住」とあるので、その
あたりまでを「三原」と呼んでいたこと
と付合する。
江戸期から昭和までの旧三原町の狭いエリ
アを三原としたのは築城以降のことであろ
うと「三原昔話」では推測している。
戦国末期に築城後、土地が開発され、
城を中心に町が作られ、さらにその外部
に村を作った。それの西端を西野村、北部
を山中村、東端を東野村と名付けて、それ
が市町村制が実施されて以降も数百年に
亘り呼称されて来た。
 
三原のルーツを柞原とするのであれば、
古代記録から消された龍王山地区一帯の
広範な地帯こそがその場所に比定できる。
そして、そのエリアの中心は名称不明の
駅家があるべき地区であり、そこはヤハタ
という名称が現在でも残っている。
そこには赤の神社の歴史が垣間見ら
れる。
白の神社に象徴される古代砂鉄製鉄開始
以前の赤土からの製鉄と密接な関係が
ある
地区であることだろう。