渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

刃物遣い

2020年08月23日 | open


刃物遣いは刃物を旋盤に匹敵する程に
正確に使いこなす。
このビリヤードキューのタップは、私が
手作業でタップを削った物だ。
刃物はカッターを使う。カッターの刃の
み。種類はオルファの幅広黒刃だ。
私がタップ交換するとこうなる。

自分で使うキューのタップ交換は撞球師
であるならば自分で交換出来るのが当た
前だ。自分で歩く自分の靴の紐は自分
結ぶように。
上手く出来なければ、逃げずに努力すれ
ばいい。時間がかかっても。睡眠を削って
でもひたむきに努力すればいい。
立ち向かうことを避ける者は、「勝負」
を主軸とする競技であるビリヤードなど
は到底できない。心が弱いからだ。
玉入れが上手いか下手かではない。
撞球は勝負なのだ。
玉入れの力が多少あろうとも、心が弱い
者は必ず勝負には負ける。最終的には負
る。それは対戦者に負けるのではない。
自分に負けるのだ。
そして、負け犬はいつも負けた言い訳を
探したがる。
それらの者の事は映画『ハスラー』では
「ルーザー」と呼ばれていた。落伍者の
だ。







心美しい日本人

2020年08月23日 | open







未成年の少年たちによくこんなことが
できると思う。
本当にネット民は愚民を超えて人間が
腐っている。
「日本から出て行け」「ここから出て行
け」「つぶせ」
よく聞く話だ。
言う者に一切の正義は無い。

気付きませんか?
戦前の日本人の頭がおかしかった時代に
似ていると。

一言言いたい。
お前が日本人ぶるな。
お前が日本人の代表面するな。
つぶせだと?
お前は何様か。
日本の恥を曝しているお前に物を言う
権利は無い。
やっていることは犯罪だ。
犯罪者が何を言ってるの?
まして、子どもたちにそんなことして。
お前こそが北極の海にでも沈んで来い。

鳴かぬなら

2020年08月23日 | open


備後國三原ではまだ秋虫は鳴いていない。

鳴かぬなら
それでもいいや
秋の虫



もう一つの斬鉄剣

2020年08月23日 | open


二王。500年前。刀工銘在銘。
鎖をも断ち切るとの伝説の刀工作だが、
これで私が物を切ることは絶対にしない。
江戸期の武士の差料だ。拵も江戸時代。
これを毎日身につけて勤務していた。

武士は大刀は屋内では脱刀する。
脇差は風呂と就寝時以外は常に身に帯び
ている。
実は、脇差こそ大刀よりも心して選択
吟味する事、これ心得として大切。
然れども大刀吟味は武士の大事。
武士の本懐を全うするためには、刀選び
こそは最重要事項となる。
そして、その刀は全ての武士が存分に使
えるプロフェッショナルでなければなら
なかった。武門に生まれたからには、それ
は必定だった。好き嫌いは認められない。
但し、武士は芸者ではない。剣技常備は
当たり前で幼少より仕込まれる。
その武技習得は、武門の者としてのごく
当たり前の大前提の事柄なのだ。
それと同時に、武士は幼少より学問も
行儀作法も躾けられる。これなくば、
武士ではない。武士は蛮族に非ずである
ので、高等教育を受け、高い教養を持た
なければなければならかった。
武士とは粗暴犯のように刀を振り回すの
が役務ではない。
武家政権の時代、人は言った。
「花は桜木、人は武士」と。


喫茶店で一番簡単なメニュー

2020年08月23日 | open


16歳高校1年の時、神田神保町の喫茶店
でバイトしていた。免許を取り、バイクを
買う為だ。
駿河台下のすずらん通りを下って抜けた
左手にそのシックな喫茶店はあった。
いつも混雑している人気店だった。
その学生街の喫茶店では、私はカウンター
を担当した。
飲み物はチーフが作ったが、ミルクだけ
は私もいれさせてくれた。
だって、パックからグラスに注ぐだけなん
だもん(笑)。

千疋屋のゼリー

2020年08月23日 | open







義弟が送ってくれた東京の千疋屋のゼリー
セットの一つを食べる。
う〜ん。最高に美味い!

横浜家系

2020年08月23日 | open







たまにはカップ麺でもと食べた。
うーん。
今十(笑)。

誰にでも出来きない事は秘伝とはならない

2020年08月23日 | open
幅の狭い小刃をハマグリに仕上げ、更に
刃先にマイクロベベルを付けた特殊技法
の研ぎのナイフ(私の研ぎ)。


この画像で見える広い部分の小刃の幅
は1ミリを切って
いる。しかしその小刃
の中にさらに極小
のマイクロベベルを
刃先に付けている。小刃の中の極細の
マイクロベベルの最頂点の刃先には
さらにエッヂを付けている。

なぜこのような研ぎが手研ぎで出来る
のか。理由は出来る者は出来るからだ。
ダンクシュートは誰にでも出来るもの
ではないが、出来る者は難なく出来る。
そういうものだ。それが理由だ。
でも、出来るんですよ。希望を持って
努力すれば。必ず。
私が私の流儀で研いだ刃物がとんでも
なく切れるのは、「切り」の動作の際
に、この技法による可変的な摩擦抵抗
のプログレッシブな状態を意図的に作り
出しているからだ。


このミクロン単位の先端のエッヂを任意
に狙い通りに施せることが刃物の研ぎ
には極めて
重要になってくる。
切れ味、刃味、切り味を研ぎ手の狙った
制御下に
置くには、この刃付け技術は
絶対に必要な技法なのである。



誰にでも出来ない事はいくら公開しても
構わない。再現できないのだから、それ
は秘伝とはならないからだ。
誰でも知ればできてしまう突出したノウ
ハウこそが秘伝というものに類する。

私の刃物研ぎについては、独自のメソッド
を文章と図解でまとめた「早月流研磨要諦」
という解説データがある。
それは刀剣関係者及び懇意の刃物専門家
ならびに私が主宰する刀剣会の会員の希望
者には渡したが、各界の著名人たちからは
賞賛の声を頂戴している。
刀匠藤安将平先生に至っては「参考には
しません。書籍執筆の時にパクります(笑)」
とまで(笑)。
その解説データを読んで研ぎに臨もうと
した刀剣会の友人は「できるか!」と
挫折しかけた。
研ぐということについての正確な作業が
確立していない人には全く役に立たない
メソッド解説書だからだ。
これは「秘伝」には該当しない。再現性
に万人むけの要素が皆無だからだ。
知ったら誰でも出来てしまうから秘匿
するのが「秘伝」なのであるから。

だからといって、見も知らぬ人が読める
ように情報公開するつもりは毛頭ない。
ダンクシュートが出来る人は世の中に
多くいる。
そちらから学べばよい。
私は「先生」ではない。
これは無論、ゼニカネとかの問題ではない。
私が気に入った人にしか、研ぎについても
「切り」についても、私の技法の根幹部分
のメソッドとノウハウは開示しないので
ある。

この刃先の糸刃の中にさえマイクロベベル
を付けている。拡大しないとそれは見え
ない。これは誰にでも出来る事ではない。

心が狭い現代人

2020年08月23日 | open





心貧しい現代人は餓鬼か亡者のように
思えてならない。




旧日本軍の飯盒

2020年08月23日 | open
 
 
友人の自宅から旧日本軍の飯盒が出て来た
とのことだ。
なんでも80歳になる方のお父様が使って
いた物らしい。
友人は私と同世代で、この飯盒の持ち主
だった方も私の母方の祖父と同世代あたり
か。私の母方祖父はニューギニアで戦死
した。
この飯盒は一番新しく見積もっても75年
ということになる。
終戦の1945年からさらに75年前という
と、明治維新直後とはいえ、まだ廃刀令
も断髪令も無い時代、江戸期のまま士族
は帯刀して新時代の街を歩いていた時代
だ。
それを考えると、75年とはかなり時代的
変化がある。
とりわけ近代から現代にかけての19世紀
末期から20世紀全般は世界史的にも激動
の時代だった。
第二次大戦後は、多少医療や通信機器等の
発達がみられたとはいえ、激動の19世紀
末や20世紀程の変化はない。
今から50年前の日本と現在はさして変わっ
てはいない。携帯電話が登場したのも1970
年の大阪万博からだ。個人への実用化は
その20年後だったが、自動車電話は1980
年には使用されていた。新幹線の中に電話
があったくらいなのだから、電波利用で
の電話の実用普及はインフラの問題だけ
だった。
無論、LEDやファクシミリやインターネッ
トなどは50年前には存在しなかったが、
50年前のそのさらに50年前などとは比べ
ものにならない。現代は50年前と比較する
と天地がひっくり返るような変化はない。
現代は50年前よりは各種の機器が進化した
だけだ。
自動車は自動車として50年前もあったし、
電話も各戸にあったし、テレビも各家に
あった。
 
ただ、世相として人は変わった。世代と
して。
最初から完成された時代に生まれた人たち
の特徴としては、そこにあるものが当たり
前として受け止めるため、人の歴史につい
て興味を持とうとはしない。学校で習う
学問としての歴史にしか興味を持たず、
先人たちの生の足跡から何かを学ぼうとは
しない傾向が強い。
そうした温故知新に考えを巡らす世代層
は、高度経済成長の始まりから終わりまで
を実体験した私の世代、つまり昭和30年代
40年代初期生まれあたりまでがラスト
世代
ではなかろうか。
私の一回り、二回り上の世代の人たちは
もっとめぐるましく世の中が変化した事
を実体験として持っている。
その中から生まれる共通の共有視座のよう
なものを私までの世代の人たちは保有して
いた。
現在の人たちは、かなり自覚的、意識的
に過去の歴史を紐解かないとそうした
時代的変遷が何をもたらしたのかという
ことに思考が働かない構造に置かれてい
る。ボーっと流されていると、どんどん
流されて、「思考せざる群れ」へと陥る
危険性を現代人のうち「時代の未経験者」
たちは持っている。
そして、ともすれば、変な形で、まるで
野放しの野犬のような粗暴で自己中心の
感性を剥き出しにする。
平和な時代はとてもありがたいし、何もの
にも変えがたいが、何か大切なものが失わ
れてしまい、人を踏みにじってでもかまわ
ないという人間性が日本人の中に蔓延し始
めてしまっている。
しかし、そうした気風は戦争を準備して
しまうのだ。
 
この飯盒、「使えと言われている気がす
る。縁を感じる」と友人は言う。
綺麗に洗浄して使ってあげたら良いと
私は思う。
どんな味の飯が炊けるのだろう。
平和を噛みしめる今の時代、きっと、
ほろ苦くはない筈だ。