渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ビール

2020年08月12日 | open


あしたは休みだ、よし飲もう。
最近は飲み続けないことにしている。
以前、一晩でビール8リットル飲んだ事
があった。ビールはいくらでも飲める。
これ、水をそれだけ飲めと言われても
無理だよなあ。

ビールはキリンクラシックラガーが一番
うまいと私は思う。
好みだけどね。
映画やドラマではやたらバドワイザーが
出てくるが、あれも嫌いではない。
映画『ハスラー』(1961)でも出て来る。
「バドビール」とポール・ニューマンは
言っていた。「ビア」の発音ではなく、
「ビール」と聴こえる発音で。

だけど、ビールは日本のキリンクラシック
ラガーが私は一番好みだ。
ところで、北海道とかのスキー場でビール
飲むとなんであんなに美味しいの?
誰かおせーて。
「そりゃあおめえ、そいつはズンドコベロ
ンチョだからよう」とかいうのでなく。
誰かおせーて。

伊豆大島

2020年08月12日 | open
コロナがスカッと晴れる時が来たら、
バイクで伊豆大島に行ってみたいな。
天然赤毛だったおれの髪はもうすっかり
グレーになっちまったけどな(笑)。


 

密輸象牙を粉砕処分 〜シンガポール〜

2020年08月12日 | open





野生動物殺し専門の悪い奴らがいるのよ。
麻薬生産者&セールスと同じで、理由は
カネ。それオンリー。
地球のことや動物のことや人間のことなど
はどうでもいいと思っている。
中には、少年少女や幼児を臓器売買の為
に買ったり売ったりするような人間たち
もいる。
人身売買は今でも起きている。

この象牙、シンガポール段階で14億円で
しょう?
末端価格はいくらになるのか。
象牙とダイヤに餓鬼のようにむしゃぶり
つくのは日本人のみだ。
これは、南ア系巨大資本のデ・ビアスが
日本の結納制度に目を付けて日本人を洗脳
して市場を開拓したことによる。
婚約、結構記念にはダイヤモンド。
スィートテンにはダイヤモンド。

それらは、全て紛争ダイヤであり、アフリ
カ人を踏みしだいて得た違法ダイヤだっ
た。キンバリーシステム以降も、世界市場
の構造に変化は無い。
全世界のダイヤ価格相場はデ・ビアス社が
意図的に管理しており、サイトと呼ばれる
各国一社だけがデ・ビアスのお墨付きを
得て買い付けの商売ができる。
デ・ビアスに逆らって旧ソ連のダイヤ鉱山
からピンクダイヤを直輸入したりして市場
に風穴を開けようとすると、内外でさまざ
まな武力行使が実行される。
それは小説や映画の世界以上にえげつない
現実としての現実的武力行使だ。
また、謀略も伴うので、国がらみでの脅威
の悪事が実行される。

いやあ。
カネってのは凄いね。
人間を人間ではなくさせる。

三原のタコ

2020年08月12日 | open

知人がたまたまタコを釣った。

刺身になってお腹に入った、とのこと。
いいなあ。タコ。


網やカゴや壺などの仕掛けを置くとタコ
は釣りではなく漁になるので、職漁師以外
がそれをやると違法になるから一般人は
竿で釣るしかないのだけどさ。
やり方次第では、岸壁からでもマダコは
結構釣れる。餌ではなくルアーで。
以前、1時間半程でタコ6匹釣ったことが
ある。イカは釣れ過ぎたので、みんなで
均等分けしたが、200杯以上あって、たま
げた。
乱獲になるのかもと少し自粛したが、その
三原の必殺ポイントはその後もウハウハ
と、もうやめて!という程に釣れた。
メバルやカサゴも釣れる良ポイントだ。
あそこは坊主は皆無であるどころか、釣れ
過ぎて逆につまらないポイントだ。
常に入れ食いなのだ。
広島県規則で禁止されている違法投光器
や撒き餌などは使わない。
そこは魚影がとても濃い。
ただ、確実に釣れるから、陸っぱりをやっ
たことがない人には面白いかも知れない。
だが、その必殺釣法は一人ではできない。
集団でやらないとならない。
普通のルアーエギングなのだが、ちとやり
方に一工夫ある。

KS BBA

2020年08月12日 | open






これ、姑もクソババアなら、その息子で
ある夫もカスやで、まじで。
妻カワイソス。
でも、そんなカス男を選んだ自分の間違
いにこそ刃を向けるべきであってね。
失敗したのは自分のせいだ。
これはコロナが無くとも、こうした事は
遅かれ早かれ起こっていた。
性格すんげ悪いもん。この親も夫も。

人の見極め大切。
そして、「親だろうが誰だろうが、たとえ
全世界を向こうに回してでもお前を守る」
ということを本気で思っていない奴など
とは結婚すべきではない。
ホイホイ何度も結婚繰り返す人も多いが、
中古車乗り換えじゃねえんだからよー。
一生一度、生涯添い遂げる事を貫く相手
でないと本質的には駄目すね。
安易に結婚しすぎ。法律行為は慎重に。

それは、外皮(人間性とは別な各種条件)を
重要視するから、離婚案件が一向に減らな
いのだと思うよ。
あんまし結婚離婚が多いとですね、また
結婚かよ!と呼ばれた時でもお祝いしたく
なくなっちゃったりするけどね。
独身の自由恋愛のおつきあいじゃねえんだ
からよー、ほどほどにしてくれよ。
あと、離婚の時、相手のことこけ下ろして
罵倒すんじゃねえよ。てめえが選んだ相手
じゃねえか。
よく言ってて恥ずかしいくないなあとか
思うよ。自分の相手罵倒の恥知らずたち
は。
しどいのになると、妻からの申し入れで
離婚して、元夫が病んで自殺したら、「私
を置いて死ぬなんて、私は一生絶対に許さ
ない」とかネットで書き連ねる女までいた
りするからよー。
なんだそれ?なんだよな。何様なの?と。
人一人死んでるのにまだ自分中心なのか、
と。
嫌な話だなあ。
よくないよ、そういうの。

マッチ箱

2020年08月12日 | open


マッチ箱はよくネットオークションで売ら
れている。
珍しいマッチなどはコレクターとしては
欲しくなるだろう。

ただ、自分で行った事がある店のマッチで
あることのほうが個人的には価値があるよ
うも思える。

(いずれも閉店)

しかし、かく言う私も、戦前の東京市の
撞球場のマッチ箱のラベルをコレクション
で持っていたりする。
コレクション持ちはこれだけだ。
何故これかというと、その付近に私は縁
があるから。

どふぞ御ひ以き手

東京芝区の南佐久間町二丁目は今の西新橋
二丁目にあたる。(住所の表示は丁目まで
が「地名」であり番地ではないので、丁目
に算用数字を用いるのは正式には法的には
誤り)
私はその旧南佐久間町に10数年通勤したの
だ。
学生時代のバイトの頃から含めたらかなり
長い期間西新橋に通っていたことになる。
渓流アルアルシリーズで、偶然にもそこは
刀工小林康宏の生まれ育った町だった。









ツアーコンダクター

2020年08月12日 | open

ツアコンから私宛にメールが来た。





富山も仙台も実は行ったことがない。
しかし、何故、東京、大阪を案内(笑)。
「旅行」で東京に戻ったり、大阪に行った
りする感覚は私には無いなあ。
大阪は仕事の管轄テリトリーだったし。
まして、東京横浜に「行く」という感覚は
全く無い。今いる場所が長期出張滞在の
ような感覚が正直なところある。漱石の
坊ちゃんが松山にいた時のような感覚が。


この建物は日本的ではないように思える
が、こうした建物は代々木上原の住宅街
にはごく普通にある。ちと派手。
渋谷区というのは場所場所でいろんな顔
があって面白い。その点は新宿に似ている
が、渋谷のほうが高級住宅街が多い。
南平台や松濤なんてね、今の時代は家は
勤め人では買えない。良いとこだけどね。

渋谷は幼い頃から馴染み深い。
デザイナーだった伯母が恵比寿に住んで
いたからだ。恵比寿駅近くの伊達町の
結構広い屋敷の敷地にアトリエと呼ぶ
工房を構えていた。
1960年代にスカーフなびかせてオープン
カーに乗って、なかなかカッチョよかっ
た。サングラスかけてたりしてさ。
うちら甥や姪たちのガキんちょは「渋谷
おばちゃん」て呼んでた。
日活の無国籍映画の頃ね。小林旭が主役
の(笑)。
ピンクドラゴンのセイちゃんも、元々の
地元はブクロだが、今では渋谷がもろに
地元のような感じなのかなあ。
ちなみに渓流アルアルで、これまた恐ろ
しい偶然で、高橋誠一郎さんのご自宅は
私が生まれた時の家のごく近所。
渋谷駅まで2キロない。
そういえば、池袋や新宿はブクロ、ジュク
と昔は略して呼ばれていたが、渋谷は昔
からシブヤでしかなかったように思える。
合ってるかどうか分からないけど。


キリン史上初!

2020年08月12日 | open


これいいなあとかみさんに相談したら、
ランニングコストめちゃ高だからダメ
と言われた(笑)
500mlで1500円相当。



記憶

2020年08月12日 | open



人には記憶というものがある。
それは起きたことのみならず、五感に
かかる部分で突出的に覚えている事
がある。
たとえば、事象や顛末といったことだけ
ではなく、音、色、味、香り、匂い、
体感温度、肌の感触、痛みや心地よさ
といったものだ。
私はかなりの事を覚えているほうでは
あるとは思うが、仮に全記憶が1千ある
としたら、私の記憶などは1にも満たな
いだろう。
ただし、五感にかかる記憶のうち、音に
関する記憶と色に関する記憶は異様に
覚えている。それと年月日。

記憶項目で飛びぬけているのは音だ。
その中でも特に人の声はかなり鮮明に
覚えているのである。
小学校1年の担任の声も2年の担任の
声も、クラスメートのうち記憶にある
顔ぶれの人たちの声も鮮明に覚えて
いる。
普段は日常生活では、すべての音が
音階と細かい区分け区分の多数の抽斗
のうち「ここ」という音の番地のポスト
に投函する音の書簡投函のように聴こ
えて
しまう感覚が自分にはあって、
日常生活的
な全ての音はかなりノイズィー
に感じ
たりしている。
人の声はすべての人が異なる声に聴こ
える。近似のように似ている音もある
が、これまで全く同じ声質の人の声を
私自身は聴いたことがない。
声色がソックリだったり瓜二つだったり
しても、それはソックリであり、瓜は
二つなのだ。同じものではない。それ
が識別できる。
そして、人の声は非常によく覚えている。
ただし、それは機械などでは再現でき
ない。
再現できないが、例えば10種の声の
サンプルを出してどれがAさんの声で
あるかというテストをしたら、たぶん
ほぼ全部的中するのではと思う。
通常関与だけでなく、特に付き合った
異性の人
の声などは全て鮮明な記憶に
刻まれて
いる。
それと楽器だ。楽器が奏でた音は忘れ
ない。

こうした聴き分けは誰にでもあるのでは
なかろうか。
例えば、音楽の音源でも、デジタル化
された音よりも明らかにレコード等の
音のほうが「良い音」として私は感じる。
音と音が途切れてないのだ。そのように
聴こえる。

デジタル音は、それが音の繋がりのよう
に疑似的に聴こえはしても、私には音と
音の山を直線で繋ぐような音にしか
聴こえない。アナログ音はゆるやかな
カーブを描くような音の連綿性を強く
感じる。脳がそう感じている。

そして色である。
色についても、見た色が記憶のポストの
万余と整然と並ぶ抽斗に入っている。
これは日本刀を観る時に非常に役に立っ
ている。
色は色合いであり、光の反射の
度合に
よるものが脳に識別を成させるの
だが、
色の違いがかなりよく分かる。

そして、一度見た色は忘れない。
実は、この世の中、ベタッとした単色は
どこにも存在しない。すべてはまだら
模様なのだ。そのまだら具合が近似色
が連鎖することであたかも単色である
かのように見える。
これは肉体的に体感する「色」として。
目の位置で観ている点と5センチ先の
点では光の具合が異なるので、当然
体感する色は違ってくる。
それは見ていれば感じ取れる。

音と色については、そのようにかなり
ピチッとした記憶の抽斗に仕舞われる
のだが、こと味や匂いに関しては私は
非常に記憶が曖昧だ。曖昧に過ぎる程に。
何もない状態で、脳の中でそれらの記憶
を「これ」と特定できないのだ。
つまりサッパリ。
ただ、別な面での記憶はあり、同じよう
な味の物を食べたら「これだ」と認知
できる。また「これではない」とも感知
できる。
しかし、何も無い状態で脳内では同じ
味が浮かんでこない。音や色はありあり
と脳裏に浮かんでくるのに。
そして、タイムリーな ing で賞味して
いる味の違いは明確に識別できるのに。
また、匂いに関しても、味と同じくほぼ
脳裏には
浮かばない。

人の記憶はかなり正確だ。
大抵、どんな人であっても、一度見た
人の顔は覚えているでしょう?
目はこうで鼻はこう、などというデータ
化されて情報処理したのではなく、パッ
と見た状態で顔は記憶するでしょう?
それの特出版みたいなものが私の場合は
音と色に関しては結構強烈な記憶として
刻まれる特徴があるようだ。
それとよく他人から指摘されるが、何年
何月何日に何があったかというのを異様
に私は覚えているのだそうだ。
しかし、これは自分が関与した事柄に
ついてのみだ。
例えば1979年12月16日の何時にはどこで
何があって自分は何をしていたか、という
ようなことを鮮明に覚えているし、その
時の状況も再現映像を作れる程に克明に
記憶している。

「あ~、あの頃、そんなことがあった
なぁ」というのは、ほぼ無い。
しかし、自分の中で無意識のうちに要ら
ないと感じた(のだろう)記憶はどん
どんデリートして行っているみたいだ。
これも、私が何か特別や特殊なものでは
なく、他の人にもそういう記憶自然消滅
の傾向はある
ことだろう。

人の声を覚えているということは、いい
こともあれば嫌なこともある。
嫌なこととしては、嫌な野郎だったり女
だったりしたその
人たちの声までもが
鮮明に記憶に残って
いることが挙げられる。
ただ、それはさしたることではない。
なぜならば、いい人たちの声のほうが
ずっと比べ物にならないほどに多いから
だ。
「君のことは忘れない」と心に思ったら、

それは忘れないのだ。声を筆頭に。
昔、ある女が言った。
「わたしと別れたら、わたしを貴方の
記憶のコレクションにはしないで」と。
私はコレクターではない。脳が勝手に
刻み込んでいるのだ。
ただし、「君の名」を忘れることは
あるかもしれない。
それは、中原中也がいうような名辞
以前の世界を大切にして、外皮では
なく「君」の本質を見ようとしていた
ならばしていた程、コア部を忘れる
ことはない。
それは肉としての器ではなく、その人
の精神的存在の如何を忘れない。