(いずれも閉店)
どふぞ御ひ以き手
東京芝区の南佐久間町二丁目は今の西新橋
富山も仙台も実は行ったことがない。
この建物は日本的ではないように思える
人には記憶というものがある。
それは起きたことのみならず、五感に
かかる部分で突出的に覚えている事
がある。
たとえば、事象や顛末といったことだけ
ではなく、音、色、味、香り、匂い、
体感温度、肌の感触、痛みや心地よさ
といったものだ。
私はかなりの事を覚えているほうでは
あるとは思うが、仮に全記憶が1千ある
としたら、私の記憶などは1にも満たな
いだろう。
ただし、五感にかかる記憶のうち、音に
関する記憶と色に関する記憶は異様に
覚えている。それと年月日。
記憶項目で飛びぬけているのは音だ。
その中でも特に人の声はかなり鮮明に
覚えているのである。
小学校1年の担任の声も2年の担任の
声も、クラスメートのうち記憶にある
顔ぶれの人たちの声も鮮明に覚えて
いる。
普段は日常生活では、すべての音が
音階と細かい区分け区分の多数の抽斗
のうち「ここ」という音の番地のポスト
に投函する音の書簡投函のように聴こ
えてしまう感覚が自分にはあって、
日常生活的な全ての音はかなりノイズィー
に感じたりしている。
人の声はすべての人が異なる声に聴こ
える。近似のように似ている音もある
が、これまで全く同じ声質の人の声を
私自身は聴いたことがない。
声色がソックリだったり瓜二つだったり
しても、それはソックリであり、瓜は
二つなのだ。同じものではない。それ
が識別できる。
そして、人の声は非常によく覚えている。
ただし、それは機械などでは再現でき
ない。
再現できないが、例えば10種の声の
サンプルを出してどれがAさんの声で
あるかというテストをしたら、たぶん
ほぼ全部的中するのではと思う。
通常関与だけでなく、特に付き合った
異性の人の声などは全て鮮明な記憶に
刻まれている。
それと楽器だ。楽器が奏でた音は忘れ
ない。
こうした聴き分けは誰にでもあるのでは
なかろうか。
例えば、音楽の音源でも、デジタル化
された音よりも明らかにレコード等の
音のほうが「良い音」として私は感じる。
音と音が途切れてないのだ。そのように
聴こえる。
デジタル音は、それが音の繋がりのよう
に疑似的に聴こえはしても、私には音と
音の山を直線で繋ぐような音にしか
聴こえない。アナログ音はゆるやかな
カーブを描くような音の連綿性を強く
感じる。脳がそう感じている。
そして色である。
色についても、見た色が記憶のポストの
万余と整然と並ぶ抽斗に入っている。
これは日本刀を観る時に非常に役に立っ
ている。
色は色合いであり、光の反射の度合に
よるものが脳に識別を成させるのだが、
色の違いがかなりよく分かる。
そして、一度見た色は忘れない。
実は、この世の中、ベタッとした単色は
どこにも存在しない。すべてはまだら
模様なのだ。そのまだら具合が近似色
が連鎖することであたかも単色である
かのように見える。
これは肉体的に体感する「色」として。
目の位置で観ている点と5センチ先の
点では光の具合が異なるので、当然
体感する色は違ってくる。
それは見ていれば感じ取れる。
音と色については、そのようにかなり
ピチッとした記憶の抽斗に仕舞われる
のだが、こと味や匂いに関しては私は
非常に記憶が曖昧だ。曖昧に過ぎる程に。
何もない状態で、脳の中でそれらの記憶
を「これ」と特定できないのだ。
つまりサッパリ。
ただ、別な面での記憶はあり、同じよう
な味の物を食べたら「これだ」と認知
できる。また「これではない」とも感知
できる。
しかし、何も無い状態で脳内では同じ
味が浮かんでこない。音や色はありあり
と脳裏に浮かんでくるのに。
そして、タイムリーな ing で賞味して
いる味の違いは明確に識別できるのに。
また、匂いに関しても、味と同じくほぼ
脳裏には浮かばない。
人の記憶はかなり正確だ。
大抵、どんな人であっても、一度見た
人の顔は覚えているでしょう?
目はこうで鼻はこう、などというデータ
化されて情報処理したのではなく、パッ
と見た状態で顔は記憶するでしょう?
それの特出版みたいなものが私の場合は
音と色に関しては結構強烈な記憶として
刻まれる特徴があるようだ。
それとよく他人から指摘されるが、何年
何月何日に何があったかというのを異様
に私は覚えているのだそうだ。
しかし、これは自分が関与した事柄に
ついてのみだ。
例えば1979年12月16日の何時にはどこで
何があって自分は何をしていたか、という
ようなことを鮮明に覚えているし、その
時の状況も再現映像を作れる程に克明に
記憶している。
「あ~、あの頃、そんなことがあった
なぁ」というのは、ほぼ無い。
しかし、自分の中で無意識のうちに要ら
ないと感じた(のだろう)記憶はどん
どんデリートして行っているみたいだ。
これも、私が何か特別や特殊なものでは
なく、他の人にもそういう記憶自然消滅
の傾向はあることだろう。
人の声を覚えているということは、いい
こともあれば嫌なこともある。
嫌なこととしては、嫌な野郎だったり女
だったりしたその人たちの声までもが
鮮明に記憶に残っていることが挙げられる。
ただ、それはさしたることではない。
なぜならば、いい人たちの声のほうが
ずっと比べ物にならないほどに多いから
だ。
「君のことは忘れない」と心に思ったら、
それは忘れないのだ。声を筆頭に。
昔、ある女が言った。
「わたしと別れたら、わたしを貴方の
記憶のコレクションにはしないで」と。
私はコレクターではない。脳が勝手に
刻み込んでいるのだ。
ただし、「君の名」を忘れることは
あるかもしれない。
それは、中原中也がいうような名辞
以前の世界を大切にして、外皮では
なく「君」の本質を見ようとしていた
ならばしていた程、コア部を忘れる
ことはない。
それは肉としての器ではなく、その人
の精神的存在の如何を忘れない。