フォローショット=押し玉には
フォローショット=押し玉には
チョークは茶ブラ使ってますね。
藤沢から江ノ島を通り、住宅街を
逗子は御用邸もある場所で、住宅
JR鎌倉駅。
駅前が広いのは、路線バスや
鶴岡八幡宮の参道はかなり圧巻だ。
正月は人で満杯。歩けない程。
鶴岡八幡宮。
鎌倉には大仏もあるだよ。
古都ですね。都ではないけど。
鎌倉いいとこ。
最高。
カッキーの季節ですね。
林道てのはこういうのかと思って
時々こんなのに出くわす事も
森を抜けて走って行く。
山道楽しい。
そこをスーッと行く。
一円玉てのは古いよお〜。
で、かなりよく使う十円玉。
団地への招待 (1960)【高画質・公式完全版】
1950年代~60年代。
まだ終戦から15年ほどしか経って
いない頃。
団地はキッチン、リビング、水洗
トイレと夢の文化住宅だった。
都内の団地も郊外の団地も「白亜
の御殿」などと呼ばれていた。
整備された道路と衣食住と教育と
交通が整った環境。
まさに公団団地は夢の生活だった。
そして賃貸も分譲も超絶人気の為、
抽選がなかなか当たらない。
我が家はたまたま偶然、抽選に当選
して東京都目黒区から神奈川県の
湘南エリアの高台の新築団地に入居
する事ができた。
物心ついた時からシステムキッチン
と風呂と水洗洋式トイレのある生活
だったが、戸建て住宅ではそうした
現代では常識のような暮らしでは
なかった。汲み取り式トイレが
日本全国常識で、台所は土間、煮炊
きも薪で、都市部でかろうじてガス
と水道が通じていたくらいだった。
地方都市などはすべて井戸水だ。
手押しポンプで井戸水をくみ上げ
ていた。
公団団地が「夢の生活」と呼ばれた
のは、60年後の現代に繋がる文化的
住環境が戦後10数年で完全整備され
ていたからだった。
それは現在のタワーマンションとも
様相を異にする。
団地の応募には収入制限、職業制限
(定職で安定収入がある家庭)が
あるにはあったが、入居できるのは
庶民だった。金持ちが入居する現代
高層マンションとは別物だ。
団地での生活は、とても健康的で
爽やかだった。
同世代の子どもたちだらけだった
というのもあるだろう。
つまり、居住者すべてが親も含めて
同世代なのだ。親たちは20代だ。
ガキどもが小学校に上がる頃。
団地はひとつの「町」だった。
賃貸862戸、分譲170戸の
大型団地。
この交番の横は医院があった。
5歳時に手をざっくりとナイフで
切った時、その医院で治療して
もらった。右となりの保育園は
かなり後に作られた。私が入園
したのは坂を下りた街中の幼稚
園だった。この棟は2004年時点
では企業の社宅となっていたら
しい。
写っていない左側には広場があり、
酒屋や駄菓子屋や八百屋や精肉
店等の商店が立ち並んでいる、
いわばショッピングモールエリア
だった。通称マーケット。店舗前
の広場は子どもたちの遊び場だ。
コンクリート床面もあり、自転車
乗ったりローラースケートをした
り自由に遊んでいた。
2004年時。まだ棟が残っていた。
2022年現在。
マーケットは現在取り壊され
ている。広場は残っている。
団地アルアル。
この海用テトラが必ずあった。
これは湘南だからか?
私が住んでいた棟は完全に建て
替えされている。
この長いほぼ直線の坂を下った
湘南電車とのドン付きに小学校
があった。
街の中に丘がある感じの地形。
小学生の時にこの坂を毎日
昇り降りしたが、かなりきつい。
両サイドは切通しのような地形
になっている。無理やり造った
感が強い。この団地は1962年に
完成し公募が始まった。
この町での暮らしは最高に快適
だった。毎週日曜には湘南海岸
江ノ島に行った。
1960年代の団地はまだ新築だし、
未来を感じさせるふくよかな町
だった。
団地の暮らしは光があった。
間近に。
やがて高度経済成長が躍進し、
団地から整備された戸建て建売
住宅が大流行となる時代が来た。
それが1970年あたりからだった。