渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

子連れ狼第一部21話「渡り徒士」

2025年03月18日 | open

子連れ狼第一部21話「渡り徒士」


士魂とは何であるのか。
この回は原作も萬屋版ドラ
マも最高の出来だ。
藩の目付役が渡り徒歩に身
を落としても士道を貫く。
若山富三郎映画版では名優
加藤剛が士道を貫く武士を
演じていた。


本ドラマ版も最高だ。
武士の士魂。
これを原作に忠実に実写版で
描き切っていたのが子連れ狼
だ。

「それがしがもし、そこもと
の立場であったら、やはり、
斬って、出る」


これこそが「武士の情け」だ。
武士の情けとは、お情けをか
けて甘い事を言う事ではない。
介錯をして進ぜるのが武士の
情けの根幹だ。
誠心誠意の士魂を示して真摯
に武士に武士が接する事を
「武士の情け」という。
例えば、盗みを働いたり、士

道不覚悟の武士がいたとする。
その者に対して、「よっしゃ
よっしゃ、わしが何とかして
やる」と助命隠蔽を画策する
のが
武士ではなく、「腹を召
され
い。それがしが介錯して
進ぜ
よう」というのが「武士
の情
け」だ。
この心境、境地、行動理念は
武士以外には理解できない。
これは江戸期はもとより、残
念ながら現代であっても。
現代は昭和23年以降は戸籍上
も武士階級は消滅したが、武
士の血
脈は制度がどう変わろ
うともきっちりと残っている。

今生きている「血脈が武士」
の者たちも、どれほど数百年
続いた己の流れる血に宿る武
士の魂を日々の生き様として
実感し、またその濁り無き生
き方を座右の銘として実現し
ているのか。


この50年以上前の実写版ドラ
マ「子連れ狼」は武士の何た
るか、士魂とは何であるかを
徹頭徹尾描き切った映像作品
だった。
これは当時においても時代劇
としても異色。
それ以前に1940年代から武士
の士魂とは何であるかを描い
た時代劇作品は多かった。
だが、テレビドラマ版でここ
まで描き切った作品は日本の
歴史上皆無だった。

萬屋錦之介版の「子連れ狼」
は金字塔であり、史上最高の
時代劇テレビドラマだ。
今の時代には全くウケない事
だろう。
事実、その後リメイクされた
北大路欣也版の「子連れ狼」
は史上最低のとんでもなく
ひどいお花畑ドラマだった。
子連れ狼に萬屋錦之介版以上
の映像作品無し。
一つだけある。それは田村正

和主演の映画作品の子連れ狼
「その小さき手に」だ。
あれは珠玉の名作。

殺陣において超絶的に優れて
いた若山富三郎版映画作品
シリーズ「子連れ狼」でさえ
も、原作への理解および士道
についての見解において、萬
屋錦之介版を全く超えられて
はいない。
そして、拝一刀は若山富三郎
のような浪士やヤクザ的な演
技ではなく、まさに柳生但馬
をも終生の当たり役として演
じ切った萬屋錦之介こそが第
一だ。
だが、映画『魔界転生』では
柳生但馬を演じた若山富三郎
の演技は、彼の出演作の中で
最高の演技だった。
役者の深み、なかなかにして

侮れない。プロが見せる演技
は鬼気迫るものがある。


なお、本萬屋版の「子連れ
狼/渡り徒歩」編で最高の
演技をしているのは実は馬。


斬り合いの争闘現場から逃
げようとした役人が斬られ
て、その刹那馬も逃げ去る。
その際に後ろ蹴りをかます
行動を馬がやっている。
これ、こんな瞬間を通常撮
影できます?
この馬の名演、至高なり。
また、この瞬間を逃さなか
ったキャメラもあっぱれな
り。

 
  


 


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