大刀洗平和記念館を見学しました。場所は筑前町で町立の施設ですが、大刀洗町に隣接しています。戦前、この地に東洋一といわれた大刀洗飛行場があり、多い時には数千人の兵士や飛行学校の生徒がいました。しかし昭和20年3月に二度にわたる大空襲を受け、飛行場は壊滅します。
記念館には当時の飛行場や人々の生活、大空襲と特攻隊の資料などが展示されています。また館内には南方の島で発見された零式戦闘機と博多湾で引き揚げられた九七式戦闘機が復元展示されています。いつも見学者が絶えません。
館内ではこのゼロ戦だけが撮影許可されています。子供のころは雑誌やプラモデルなどでおなじみの飛行機でした。
大刀洗飛行場は特攻の中継基地でもありました。写真はゼロ戦の操縦席です。館内には特攻に出撃した兵士の遺書や兵隊の装備品などが数多く展示されています。また当時の様子や戦争の悲惨さを訴える人々の証言もあります。
大刀洗は二度にわたる空襲で多くの兵士や民間人が死亡しました。特に3月27日の空襲では、小学生達が避難していた林を爆弾が直撃し、31人の児童が亡くなるという悲劇がありました。
これは戦争とは関係ありません。初めて国産技術だけで製作されたヘリコプターだそうです。初飛行が1995年と知って少し驚きました。
平和記念館の前の道を隔てて飛行機が見えます。ジェット練習機です。ここは甘木鉄道の太刀洗駅で、もともとは旧駅舎を利用した篤志家による私設の平和記念館がありました。甘木鉄道は現役の鉄道で、新しい太刀洗駅はすぐ裏にあります。
町立平和記念館が出来て、私設の記念館はレトロステーションに衣替えしました。資料の大半は町立の記念館に寄贈されましたが、昭和の面影が残る生活用品が展示されています。コンセプトは、昭和の忘れ物だそうです。小さな施設です。いつかご紹介したいと思います。
大刀洗平和記念館は一部リニューアルされて、特攻資料室が増設されていました。特攻機に搭乗した兵士はほとんどが20代の若者です。資料室を見学して初めて知った事もありました。
7、8年前、大刀洗の隣町で地域のお世話をしている方から、大刀洗空襲の話を伺ったことがあります。その方は小学校の遠足で登っていた耳納連山から、沢山のB-29爆撃機が大刀洗に来襲して爆弾を落とすのを見ていたそうです。
話は変わりますが、東京オリンピックを3年後に控え、昭和39年に開催された東京オリンピックの映像が流れることがあります。当時、私は家のテレビを通してリアルタイムで見ていました。
閉会式では整然と行進する日本選手団に各国の選手たちが勝手に合流し、旗手を担ぎ上げるなど全く予定外の閉会式になりました。しかし平和を象徴するような、 ほのぼのとした記憶に残る閉会式となりました。いまの若者はその映像を歴史の一コマとして見ていますが、私は歴史の目撃者でもあります。
私達は戦争のことは学習で知識を得ますが、戦後のことについては生き証人であるという当たり前の事実に、いささかの感慨を覚えます。
戦前に東洋一の飛行場が有ったことも 初めて知りました。
多くの展示物が有る立派な平和記念館、戦争体験の無い若者達が それらを見て どのように感じるのか・・、
キナ臭くなっている現在、戦争の惨さ、平和の有難さ、今こそ 共有しなければならないのかも知れません。
南北朝時代、南朝方の懐良親王に従って「筑後川の戦い」を戦った菊池武光が、川で太刀を洗ったという故事にちなみます。
明治初期の町村制施行で「太刀洗村」として届けましたが、国の役人が間違って「大刀洗」と表記し、そのまま村の名前になりました。
いまでも当地では両方の表記が混在しています。
町名は「大刀洗町」ですが、駅名は「太刀洗駅」です。太刀を洗ったとされる川は「大刀洗川」です。施設名も両方あるようです。
この地方には、宮ノ陣町や五万騎塚など筑後川の戦いに因んだ地名が残っています。
町名、駅名、川名、混在しているって 外部の人間 戸惑いますね。
数年前 湯布院に1泊した時 町名と駅名、違っていて (湯布院、由布院)、戸惑ったこと 思い出しました。
ローカルな話題ですが、地元ではあまり気にしていないようです。
おっしゃるように湯布院も別表記がありますね。
柳川も昔は「柳河」と表記していました。
「柳河町」が別の町と合併して「柳川市」になりました。
廃線した佐賀線は「筑後柳河駅」、いまも「柳河小学校」という学校があります。