永年、剣道をやっていて「下段の構え」に疑問を持っていた。
中段(正眼)、左右の上段、脇構え、八相のいずれも、相手に備える構えであることは間違いが無い。
しかし、剣道形の下段は、そこから打ち込むのも守るのも「やりづらいなあ」と思っていた。
「下段は守りの構え」と聞いたこともあったが「んなアホな」とも思っていた。
最近、一刀流の構えのマニュアルを長正館の館員用のために作ったが、
ついでに日本剣道形の下段も撮影して、一刀流の構えの差を見比べて考察することにした。
日本剣道形の下段で、一足一刀の間で相対してみる。(写真は合成)
上の写真の「下段で剣先を触れ合う間」は剣先を上げて中段になると一足一刀の間になる。
ここが日本剣道形で唯一違和感のあるところ。
剣先の先を延長すると、相手の足元に剣先を向けている。
命のやり取りをしている状況で、この構えは非常に危ない。
上から簡単に押さえられ、一刀流大太刀の「巻霞」のように身動き出来なくなってしまう。
(昭和40年発行 笹森順造著「一刀流極意」153頁より)
これはどこかの時点で、下段の構えの解釈に大きな勘違いがあったのでは無いだろうか?
-----------------------------------------
次に一刀流の下段の構えを紹介する。
一刀流の下段は「切先を剣先よりやや下げる」と教えられる。
これは一足一刀の間で相対した時に、相手の下丹田に切先を向けるとされる。
※ただし、下丹田は臍下一寸という説と臍下三寸という説がある。
一刀流の下段で、一足一刀の間で相対してみる。(写真は合成)
剣先は相手の下丹田を向いている。
(下丹田を臍下一寸とするならば剣先はもう少し高く地面に平行に近くなる)
この構えは、剣道においてもよく使われる。
打込もうと前に出ようとした時に、この高さで構えられると、安易に出れなくなる。
打つ前の攻めで「相手の拳を狙え」というのも似ているのかも知れない。
つまり、この一刀流の下段は、攻防一致の構えなのである。
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全日本剣道連盟発行の「日本剣道形解説書」には、
大日本帝国剣道形 増補加註 大正元年十月制定 大正六年九月加註 昭和八年五月加註増補 として、
3頁に「右自然体トナルヲ度トシテ立上リ剣尖ヲ下ケ」の註として、
(註) 此際剣尖ハ自然ニ相手ノ左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)左斜ニ下ゲ刃ハ稍々左斜下方ニ向ク
とある。後にも先にも下段の構えに関する記述はここのみである。
そして、この記述は、大正六年九月加註には無い。昭和八年五月に書き加えられたのだ。
全日本剣道連盟が公開している、中山博道-高野佐三郎の剣道形は、昭和15年に撮影されたものだが、
両者の三本目の下段の構えを見ると、中山博道は若干低いが、高野佐三郎は明らかに一刀流の下段である。
この両者の構えが正しいとなると、昭和八年五月加註増補 の記述が間違っていることとなる。
-----------------------------------------
ここからは私見なのだが、
一足一刀の間での「剣先の向きを下丹田に付ける」を正しいとするならば、
「此際剣尖ハ自然ニ相手ノ左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)」の、
(下段ノ程度)が間違っているような気がしてならない。
構えを解いた高さの構えは、攻めるにも不向きだし守るにも不向きである。
剣道で大切な、懸待一致の精神とは相容れないと思うのだがどうだろうか。
※実は、構えを解く場合の剣先の高さも、先の、中山博道-高野佐三郎の剣道形、
そして斉村五郎-持田誠二の剣道形も、一刀流の下段の高さである。(中山博道はもっと高いが・・・)
一刀流の下段の構えのまま、立会の間合(およそ9歩)で相対してみる。(写真は合成)
先ほどの、一刀流の下段の構えで相対し、その剣先を相手に延長させてみる。
すると、剣先の向きは、相手の左膝頭より1~2寸ほど下を向くのである。
まさしく、昭和八年五月加註増補の「左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)」と合致してしまうのである。
どこかで勘違いがあったのでは無いだろうか?
勘違いで、(下段ノ程度)を書き加えてしまったのでは無いだろうか?
もしくは、構えを解く高さが、当時はずっと高かったのでは無いだろうか?
それか、立合いの間と、構えを解く間合い(お互いの切先が重なる間合い)を混同したのかも知れない。
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【2020年11月17日追記】
国際武道大学教授 大矢稔氏の論文をネットで見つけた。
これは日本剣道形が生まれた経緯を詳細に分析している論文である。
「日本剣道形の由来と解釈: 大日本帝国剣道形の草案・原案・成文の比較対照」35-52頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/35/1/35_35/_pdf
論文の49頁には「相下段の構えの刀尖の着け処は(中略)剣先を膝下一寸乃至二寸の処につけるのは定論である」と書いてある。
大正元年(1912年)10月16日の剣道形調査委員会の内容だ。
つまり、9歩の間合いで下段に構えた時、剣先は相手の膝下1~2寸下を向いているのが正解というわけだ。
やはり、どこかの時点で勘違いがあって、間違えた解釈のまま定着してしまったのだろう。
【2020年11月18日追記】
さらに別の資料があった。
大正4年3月10日発行の、高野佐三郎著「剣道」の54頁と55頁の間にある第六図である。
説明は53頁。「剣尖を敵の膝下約二寸の部分に着けて構ふ」とある。
ここでの「構ふ」は、9歩の間合いにおいての「構ふ」では無いだろうか?
この図では剣先の向きが中途半端であり、どちらともつかない曖昧な構えに思える。
(大正4年3月10日発行、高野佐三郎著「剣道」の52頁と53頁の間にある第五図)
52頁の説明には「剣尖を敵の両眼の中間に着け」とある。
ところがこの第五図は、剣先が相手の頭上を向いている。
この説明はどの間合いを説明しているものだろうか?
一足一刀の間であるならば、下段の時の説明もそうなのだろうか?
この第五図も第六図も説明文とは違っていて違和感がある。
文献から真実を考察するのは無理があるのかも知れない。
ただし、はっきりしているのは「膝下2寸は高さでは無く剣先の向き」であるということだ。
あとは「どの間合いにおいての剣先の向きなのか?」ということだけである。
中段(正眼)、左右の上段、脇構え、八相のいずれも、相手に備える構えであることは間違いが無い。
しかし、剣道形の下段は、そこから打ち込むのも守るのも「やりづらいなあ」と思っていた。
「下段は守りの構え」と聞いたこともあったが「んなアホな」とも思っていた。
最近、一刀流の構えのマニュアルを長正館の館員用のために作ったが、
ついでに日本剣道形の下段も撮影して、一刀流の構えの差を見比べて考察することにした。
日本剣道形の下段で、一足一刀の間で相対してみる。(写真は合成)
上の写真の「下段で剣先を触れ合う間」は剣先を上げて中段になると一足一刀の間になる。
ここが日本剣道形で唯一違和感のあるところ。
剣先の先を延長すると、相手の足元に剣先を向けている。
命のやり取りをしている状況で、この構えは非常に危ない。
上から簡単に押さえられ、一刀流大太刀の「巻霞」のように身動き出来なくなってしまう。
(昭和40年発行 笹森順造著「一刀流極意」153頁より)
これはどこかの時点で、下段の構えの解釈に大きな勘違いがあったのでは無いだろうか?
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次に一刀流の下段の構えを紹介する。
一刀流の下段は「切先を剣先よりやや下げる」と教えられる。
これは一足一刀の間で相対した時に、相手の下丹田に切先を向けるとされる。
※ただし、下丹田は臍下一寸という説と臍下三寸という説がある。
一刀流の下段で、一足一刀の間で相対してみる。(写真は合成)
剣先は相手の下丹田を向いている。
(下丹田を臍下一寸とするならば剣先はもう少し高く地面に平行に近くなる)
この構えは、剣道においてもよく使われる。
打込もうと前に出ようとした時に、この高さで構えられると、安易に出れなくなる。
打つ前の攻めで「相手の拳を狙え」というのも似ているのかも知れない。
つまり、この一刀流の下段は、攻防一致の構えなのである。
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全日本剣道連盟発行の「日本剣道形解説書」には、
大日本帝国剣道形 増補加註 大正元年十月制定 大正六年九月加註 昭和八年五月加註増補 として、
3頁に「右自然体トナルヲ度トシテ立上リ剣尖ヲ下ケ」の註として、
(註) 此際剣尖ハ自然ニ相手ノ左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)左斜ニ下ゲ刃ハ稍々左斜下方ニ向ク
とある。後にも先にも下段の構えに関する記述はここのみである。
そして、この記述は、大正六年九月加註には無い。昭和八年五月に書き加えられたのだ。
全日本剣道連盟が公開している、中山博道-高野佐三郎の剣道形は、昭和15年に撮影されたものだが、
両者の三本目の下段の構えを見ると、中山博道は若干低いが、高野佐三郎は明らかに一刀流の下段である。
この両者の構えが正しいとなると、昭和八年五月加註増補 の記述が間違っていることとなる。
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ここからは私見なのだが、
一足一刀の間での「剣先の向きを下丹田に付ける」を正しいとするならば、
「此際剣尖ハ自然ニ相手ノ左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)」の、
(下段ノ程度)が間違っているような気がしてならない。
構えを解いた高さの構えは、攻めるにも不向きだし守るにも不向きである。
剣道で大切な、懸待一致の精神とは相容れないと思うのだがどうだろうか。
※実は、構えを解く場合の剣先の高さも、先の、中山博道-高野佐三郎の剣道形、
そして斉村五郎-持田誠二の剣道形も、一刀流の下段の高さである。(中山博道はもっと高いが・・・)
一刀流の下段の構えのまま、立会の間合(およそ9歩)で相対してみる。(写真は合成)
先ほどの、一刀流の下段の構えで相対し、その剣先を相手に延長させてみる。
すると、剣先の向きは、相手の左膝頭より1~2寸ほど下を向くのである。
まさしく、昭和八年五月加註増補の「左膝頭ヨリ一二寸下(下段ノ程度)」と合致してしまうのである。
どこかで勘違いがあったのでは無いだろうか?
勘違いで、(下段ノ程度)を書き加えてしまったのでは無いだろうか?
もしくは、構えを解く高さが、当時はずっと高かったのでは無いだろうか?
それか、立合いの間と、構えを解く間合い(お互いの切先が重なる間合い)を混同したのかも知れない。
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【2020年11月17日追記】
国際武道大学教授 大矢稔氏の論文をネットで見つけた。
これは日本剣道形が生まれた経緯を詳細に分析している論文である。
「日本剣道形の由来と解釈: 大日本帝国剣道形の草案・原案・成文の比較対照」35-52頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/35/1/35_35/_pdf
論文の49頁には「相下段の構えの刀尖の着け処は(中略)剣先を膝下一寸乃至二寸の処につけるのは定論である」と書いてある。
大正元年(1912年)10月16日の剣道形調査委員会の内容だ。
つまり、9歩の間合いで下段に構えた時、剣先は相手の膝下1~2寸下を向いているのが正解というわけだ。
やはり、どこかの時点で勘違いがあって、間違えた解釈のまま定着してしまったのだろう。
【2020年11月18日追記】
さらに別の資料があった。
大正4年3月10日発行の、高野佐三郎著「剣道」の54頁と55頁の間にある第六図である。
説明は53頁。「剣尖を敵の膝下約二寸の部分に着けて構ふ」とある。
ここでの「構ふ」は、9歩の間合いにおいての「構ふ」では無いだろうか?
この図では剣先の向きが中途半端であり、どちらともつかない曖昧な構えに思える。
(大正4年3月10日発行、高野佐三郎著「剣道」の52頁と53頁の間にある第五図)
52頁の説明には「剣尖を敵の両眼の中間に着け」とある。
ところがこの第五図は、剣先が相手の頭上を向いている。
この説明はどの間合いを説明しているものだろうか?
一足一刀の間であるならば、下段の時の説明もそうなのだろうか?
この第五図も第六図も説明文とは違っていて違和感がある。
文献から真実を考察するのは無理があるのかも知れない。
ただし、はっきりしているのは「膝下2寸は高さでは無く剣先の向き」であるということだ。
あとは「どの間合いにおいての剣先の向きなのか?」ということだけである。