く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<和歌山城> 西の丸と二の丸をつなぐ御橋廊下

2021年09月30日 | 旅・想い出写真館

【石垣では自衛隊員が命綱着け草刈り】

 久しぶりに和歌山を訪ねた。目的は他の城では余り目にすることがない和歌山城の傾斜した“御橋廊下”と、城のすぐ南に位置する和歌山県立博物館・近代美術館。城の石垣では命綱のロープを着けた自衛隊員が鎌で草を刈るなど清掃活動中だった。数十年ぶりに中心商店街ぶらくり丁にも立ち寄った。橋のたもとの歌碑に近づくと突然懐かしい演歌「和歌山ブルース」が流れてきた。

 和歌山城は紀州徳川家の居城。天守閣はかつて国宝に指定されていたが、1945年の空襲で焼失、その8年後にコンクリート造りで元の姿に復元された。御橋廊下は西の丸と二の丸大奥をつなぐ屋根と白壁で覆われた通路。当時の図面や発掘調査を基に2006年に復元された。長さは約27m。江戸時代には殿様やお付きの人だけが通行できたが、今では履物を脱ぎさえすれば自由に通れる。両側の地盤の高低差から、斜めに架けられているのが特徴だ(勾配角度約11%)。そのため床板は滑らないよう段違いに組まれているが、段差がかなりあるため歩くたびに足の裏が痛くなるほどだった。西の丸側には堀から出土した巨大な礎石などが展示されていた。

 城を訪れた日、城内には自衛隊員の姿が目立った。大阪府和泉市の陸上自衛隊信太山駐屯地所属の隊員たちで、毎年この時期になると石垣などを覆う草や蔓の刈り取り作業に取り組んでいるという。高くて急な石垣での活動は足場の悪い場所での訓練も兼ねているそうだ。その活動が地元の人々からも感謝されているのだろう、多くの人が「ご苦労さまです」と声を掛けていた。ある場所には団体や企業からの差し入れとみられる飲料水などが入ったダンボール箱が積まれていた。

 城内北西角にある「わかやま歴史館」に立ち寄った。まずシアタールームで映像「よみがえる和歌山城」を見た後「和歌山城の歴史文化」の展示コーナーへ。紀州徳川家伝来という金印はまばゆいばかりの輝きを放っていた。「わかやま人物探訪」コーナーでは陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子の5人が紹介されていた。博物・生物学者の南方熊楠(1867~1941)は神社林(鎮守の森)の保護活動で広く知られるが、ここでは和歌山城の堀の埋め立て・宅地化計画への反対運動にも詳しく触れていた。熊楠の生誕地は南海和歌山駅から程近い所にある。そこには胸像が乗った立派な石碑が立てられていた。県立博物館では企画展「きのくにの宗教美術」、県立近代美術館では企画展「コミュニケーションの部屋」が開かれていた。

 ぶらくり丁は「和歌山ブルース」の中で「逢いたい見たいすがりたい そんな気持ちにさせるのは ぶらくり丁の恋灯り……」と歌われている。吉川静夫作詞・吉田正作曲で50年ほど前、古都清乃が歌って大ヒットした。雑賀橋のたもとに歌碑が造られたのは17年前の2004年。レコード盤を模した台座の上に高さ1mあまりの円筒の照明器具が立ち、台座には歌詞や五線譜などが刻まれていた。そばに寄ると感知し歌が流れ始める仕掛けだ。今も長く歌い継がれており、古都清乃は地元で絶大な人気を保っており、2012年には和歌山県文化功労賞を受賞した。川べりには古都清乃や三田明らをゲストに迎え10月31日に開かれる「ニューレトロ!ぶらくり歌謡音楽祭」のポスターが貼られていた。

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<小浜市㊦> 空印寺境内に八百比丘尼入定の洞窟

2019年12月19日 | 旅・想い出写真館

【小浜城は小浜湾を望む全国屈指の水城だった!】

 若狭地方最大の秋祭り「放生祭(ほうぜまつり)」で有名な八幡神社のすぐ西側、空印寺(曹洞宗)の境内に〝八百比丘尼(はっぴゃくびくに)入定(にゅうじょう)の地〟といわれる洞窟があった。空印寺は小浜藩主酒井家の菩提寺。八百比丘尼の不老長寿伝説は人魚伝説の一つとして全国各地で語り継がれており、ある研究者の調べでは全国約120カ所に残っているという。そのほとんどの伝承に若狭の地名が登場するそうだ。

 小浜に伝わる物語は――。昔、地元の長者が竜宮に招かれ土産として人魚の肉を持ち帰る。これを口にした娘はそれからというもの、いくら歳を重ねても年老いることがなく若さと美しさを保ち続けた。120歳のとき剃髪し比丘尼(尼さん)になって全国を行脚した後、故郷に戻ってこの洞窟に籠り静かに死のときを待った。後世の人々は800歳まで生きたこの娘を「八百比丘尼」「八百姫」などと呼んで敬った。

 

 洞窟の入り口右手には柔和な表情の比丘尼の石像。洞窟内の観覧は自由で、手を合わせ中に入らせてもらった。大きさは高さ2m、幅1.5m、奥行き5mほど。壁面の岩は実に巨大で、一瞬「石舞台古墳」(奈良県明日香村)の光景が頭をよぎった。一番奥には「八百比丘尼」と彫られた石碑が立っていた。人魚伝説に因んで、ここから北へ約400m、小浜湾に面した「マーメードテラス」には2体の人魚像が飾られていた。人魚の像は小浜駅前商店街の郵便ポストの上にも置かれていた。

 

 小浜城跡は北川と南川の間にあり西側に小浜湾を望む場所に位置する。関が原の後若狭に入国した京極高次と忠高が2代30年余をかけて築城、その後、藩主として入城した酒井家14代237年にわたる居城となった。全国屈指の水城で別名「雲浜城(うんぴんじょう)」とも呼ばれた。1871年に改修中、本丸櫓から出火して大半を焼失し、今は城郭の石垣を残すのみ。本丸跡には藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座する。

 その一角にも八百比丘尼にまつわる痕跡があった。赤屋根で覆われた古い井戸の前に置かれた平たい「古呂美橋(ころびばし)の石」。かつて現在の小浜市鹿島区と浅間区の間にあった石橋の石という。小浜藩儒(藩主に仕えた儒学者)千賀玉斎(1633~82)著『向若録』にはこんな内容が記されているそうだ。「八百比丘尼がこの場で倒れたまま起きずして死す。故に名付けて古呂美橋という。京極家の地領の時にこの本丸に移す」

 

 小浜は明治時代に与謝野晶子とともに『明星』で活躍した歌人山川登美子(1879~1909)の出身地。生家が記念館として公開され、小浜公園には歌碑が立ち、観光案内標識などにも登美子の歌が記されていた。旧茶屋町「三丁町」の標識の側面には与謝野鉄幹の歌「君なきか若狭のとみ子しら玉のあたら君さえ砕けはつるか」。ただ山川登美子記念館は訪ねた火曜日が運悪く定休日だった。明治時代の芝居小屋を移築・復元した「旭座」も火曜定休で入れなかったのが少々心残りだった。

 

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<小浜市㊤> 茶屋町などの伝統的な町並み「小浜西組」

2019年12月18日 | 旅・想い出写真館

【常高寺の山門と石段の間にJR小浜線のレールが!】

 福井県内には国の重要伝統的建造物群保存地区が2カ所ある。一つが「若狭町熊川宿」(1996年選定)、そしてもう一つが「小浜市小浜西組」(2008年選定)。この西組は主に茶屋町と商家町で構成し、多くが明治中期の1888年の大火以降の建築だが、丹後街道を中心とした古くからの町割を今に残す。〝ウナギの寝床〟のように間口が狭く奥行きが長い京風の間取りが多く、袖壁(袖うだつ)やベンガラ格子、若狭瓦などの伝統的な家屋も少なくない。

 小浜西組は飛鳥区、香取区、貴船区、浅間区、住吉区、鹿島区などから成り、これらの地名は全国の有名な神社に由来する。例えば飛鳥は奈良県の飛鳥坐(あすかにいます)神社から、香取は千葉県の香取神宮からといった具合だ。保存地区を代表するエリアが飛鳥~香取区の元茶屋町「三丁町(さんちょうまち)」界隈。猟師町・柳町・寺町の3つをまとめて三丁町と呼ばれたという。この地域には明治期の元料亭「蓬嶋楼(ほうとうろう)」や「町並みと食の館」(元料亭「酔月」)などがある。NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」でヒロインの祖母はこの三丁町の元芸妓という設定だった。

 

 飛鳥区には庚申堂があり、通り沿いの家屋の軒先には本尊青面金剛の使いの猿を模した魔除けのお守り〝身代わり猿〟が吊るされていた。その光景はまるで奈良市内の古い町並み「なら町」界隈にそっくり。保存地区内には大火を教訓に建てられたという西洋風建物の「白鳥会館」や「高島歯科医院」(いずれも国の登録文化財)、大正期の京町家風の「町並み保存資料館」などもあった。

 保存地区の南側一帯にはいくつもの寺院が並ぶ。その一つ、臨済宗妙心寺派の常高寺は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の次女で、小浜藩主京極高次の妻お初の方(常高院)が1630年に建立した。晩年を江戸で過ごしたお初がここに寺を建てたのは自らの心の拠りどころのほか、若くして非業の最期を遂げた両親の菩提を弔いたいとの思いもあったようだ。本堂にはお初の位牌を中心に、右側に夫京極高次、左側に両親の位牌が祀られていた。

 

 この常高寺の山門を見上げる参道の石階段もNHKの「ちりとてちん」のロケ地になった。ただ階段を上がっても山門に辿りつくことはできない。石段の上と山門の間にJR小浜線が走っているためだ。そのため寺に向かうには階段下を左折し線路をくぐって回り込まなければならない。参道の石段と山門とその間に横たわるレール。実に珍しい光景。階段下には親切に電車が通過する時刻表も掲示されていた。

 

 山門脇には俳人尾崎放哉(1885~1926)の句碑が立っていた。「浪音淋しく三味や免させて居る」。托鉢生活で各地を転々とした放哉は一時期をこの常高寺の寺男として過ごし多くの自由律俳句を残した。寺宝に常高院肖像画や自筆の墨書、書院を彩る狩野派の障壁画など。本堂裏手の庭園も紅葉が美しかった。

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<鯖街道熊川宿> 宿場町の面影を残す約1キロの町並み

2019年12月15日 | 旅・想い出写真館

【東の端に番所、街道沿いには勢いよく流れる水路「前川」

 〝鯖街道〟として知られる若狭街道は日本海側の小浜を起点に朽木、花折、大原を経て京都に至る。その街道随一の宿場町として栄えたのが熊川宿(福井県若狭町)。16世紀末、若狭の領主となった浅野長政が交通・軍事の要衝として着目して町並みを整備、海産物を運ぶ人の往来でにぎわった。往時の歴史的景観を残す熊川宿は1996年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、さらに4年前の2015年には「御食国(みけつくに)若狭と鯖街道」が日本遺産に認定された。専門家が選ぶ「訪ねてみたい風情あふれる宿場町」(10月26日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」)でも妻籠宿(長野)や大内宿(福島)、馬籠宿(岐阜)などに続いて10位にランクインしている。

 熊川宿の町並みは小浜側から下ノ町(しもんちょ、約300m)、中ノ町(なかんちょ、約300m)、上ノ町(かみんちょ、約400m)と続く。重伝建保存地区の広さは約10.8ヘクタール。街道は一直線ではなく緩やかにカーブを描き、下ノ町と中ノ町の境目は「まがり」と呼ばれ直角に折れ曲がる。熊川宿を訪れるのは今回が初めて。JR京都駅から湖西線で今津近江に向かい、駅前からバスに揺られること約30分、道の駅若狭熊川駅に降り立った。

 

 道の駅の一角に設けられた「マンガで知る鯖街道ミュージアム」を見学後、早速上ノ町へ。まず出迎えてくれたのが復元された「熊川番所」。江戸時代にはここで「入り鉄砲に出女」と呼ばれるように往来が厳しく取り締まられ流通物資への課税も行われた。2体の役人の人形が番所内から通りに目を光らせていた。その近くに鎮座する権現神社は再三大火に見舞われたことから村人が防火を願って建立した。〝権現さん〟として親しまれてきたそうだ。

 

 中心部の中ノ町には熊川宿で最も古い町家「倉見屋荻野家住宅」をはじめ趣のある建物が多い。倉見屋は当時の問屋の形式をよく残しているとして5年前、国の重要文化財に指定された。「勢馬清兵衛家」も「菱屋」という旧問屋で、整然とした格子が美しい。「旧逸見勘兵衛家住宅」は伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助(1883~1947)の生家。約20年前に大改修が行われたが、外観は昔ながらの町家造りになっている。その近くに明るい青い壁の「宿場館(若狭鯖街道資料館)」があったが、訪ねた日は残念ながら定休日だった。元々は昭和前期の1940年に熊川村役場として建てられたとのこと。

 中ノ町には神社仏閣も多い。松木神社は江戸初期に厳しい年貢の引き下げを訴え続けて28歳の若さで磔の刑に処せられた義民松木庄左衛門を祀る。鳥居のそばに銅像が立ち、境内には遺徳を顕彰する義民館も。参道を上って境内に入ると、お尻が真っ赤なサル2匹が森に向かって逃げていた。白石神社は地元の氏神で、毎年5月3日の祭礼では京都の祇園祭に模した豪華な見送り幕(県指定文化財)で飾られた山車が曳き回されるという。得法寺は徳川家康が織田信長に従って越前の朝倉義景を討つため敦賀に向かう途中に泊まったといわれ、境内には翌朝出陣の際に座ったという〝家康腰かけの松〟の跡が残っていた。

 

 下ノ町には街道の歴史や食文化を紹介する「村田館」、木工や陶芸を体験できる「熊川宿体験交流施設与七」があり、西側端の山側には「孝子与七の碑」が立つ。与七とその妻は約270年前、貧しい暮らしの中で父母にご馳走を食べさせるなど孝行を尽くし、時の藩主は米数俵を与えて褒め称えたそうだ。熊川宿の街道沿いには前川と呼ばれる幅1m強の水路が走り、家々の前には水路に下りる「かわと」という石段の洗い場が設けられていた。この前川は2008年、環境省の「平成の名水百選」に選ばれている。

 

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<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建築物も多く

2019年11月18日 | 旅・想い出写真館

<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建造物も

【西寺町界隈には様々な宗派の寺院が勢ぞろい】

 津山滞在2日目、向かったのは市中心部を南北に貫く鶴山通りの西側「城西」界隈。大正ロマンを漂わせる「城西浪漫館」、明治時代に建てられた津山高校・中学の本館や「作州民芸館」など歴史的な建築物が点在する。白壁沿いに様々な宗派の寺院が軒を連ねる旧出雲街道沿いの西寺町周辺の町並みも見応えがたっぷり。後で数えてみたらこの日お参りした神社仏閣はお寺だけでも12カ寺に達していた。

 「城西浪漫館」の元々の正式名称は「中島病院旧本館」。1917年(大正6年)建築の木造2階建てで、正面上部のドームや門柱、窓などの凝った装飾が目を引く。当時院長を務めたのが津山出身の中島琢之氏。東京帝国大学医科大学を卒業後、東京都内の病院で活躍していたが、郷土の熱望に応えて帰郷し私設病院を開いていた。しかし研究のため再度の上京を考え始める。これに対し地元の人たちは「せっかくの名医を失っては大変」と引き止めに動いた。そして、とりわけ熱心だった銀行家を中心に最新医療機器を備えたこの病院を造ったという。12年前に建物が市に寄贈され、現在は館内に喫茶室や病院の歴史を振り返る展示場、貸しギャラリーなどが設けられている。

 

 「作州民芸館」は旧出雲街道に架かる翁橋のすぐ西側に位置する。こちらは1909年(明治42年)に土居銀行津山支店(後に本店)として建てられた。玄関の両翼が張り出した左右対称の木造2階建てで、ルネサンス調の意匠を基本としている(正面写真を撮るときどうしても電線が入るのが残念)。国指定重要文化財「旧遷喬(せんきょう)尋常小学校校舎」(岡山県真庭市)などを手掛けた江川三郎八(1860~1939)が設計した。民芸館のすぐ前には「作州絣工芸館」、東側には「津山城下町歴史館」があった。歴史館は武家屋敷の旧田淵邸の長屋門(1840年頃建築)と新たに建てられた津山だんじり展示棟、ガイダンス棟からなる。ガイダンス棟には大名行列の絵図や津山だんじり28台のパネル、武家屋敷に使われていた鬼瓦などが展示されていた。

 

 翁橋の東南側に位置する徳守神社は1604年に初代津山藩主森忠政が城下の総鎮守として造営した。山門を入って左手に赤穂浪士の四十七士の一人神崎与五郎の歌碑があった。「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」。与五郎は元津山藩士だったが、その後赤穂浅野家に仕えていた。歌は討ち入り前の1702年(元禄15年)秋、故郷津山の徳守宮祭礼を偲んで詠んだという。与五郎は浅野家きっての俳人として知られていた。国の重要文化財に指定されている県立津山高校本館(旧津山尋常中学本館)は奴通りを北上し城西通りを右に折れた津山裁判所の北側にあった。1900年(明治33年)築で、ベージュ色を基調とした壁面に正面中央上部の時計台が印象的。校門左手のすぐ手前に「NHK朝の連続テレビ小説『あぐり』ロケ地」という木柱が立っていた。

  

 旧出雲街道の西側にある西寺町周辺はその名の通りお寺の町だった。津山藩は城下の東西の端に寺院を集めて寺町を形成した。東の寺町が北側の丘陵地に置かれたのに対し、西の寺町は出雲街道沿いを中心に配置された。そのため江戸時代の前半に建立された寺院が多い。中でも本源寺・泰安寺・妙法寺は津山三箇寺といわれた。本源寺は城主森家の菩提寺で、本堂や庫裏、霊屋などは国指定重要文化財。泰安寺は森家の後の松平家の菩提寺。本堂の創建は本源寺が1607年、泰安寺が1644年、妙法寺が1653年と推定されている。(上の写真は㊧本源寺、㊨妙法寺)

 

  西寺町には他にも珍しい鐘楼付きの仁王門を持つ愛染寺、通称赤門と呼ばれる寿光寺(上の写真2枚)など見所が多い。この西寺町には古い商家などの建物も多く残っており、城東地区に続いて国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を目指す動きも高まっているそうだ。城西には他にも津山出身の第35代内閣総理大臣平沼騏一郎(1867~1952)の別邸「知新館」などもあり見所が多い。ただ津山城の四脚門を移築した神門がある中山神社まで足を延ばせなかったのが少々心残りだった。

 

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<津山散策㊥城東> 出雲街道沿いは重伝建保存地区

2019年11月17日 | 旅・想い出写真館

【作州城東屋敷、箕作阮甫旧宅、洋学資料館…】

 岡山県内には国選定の重要伝統的建造物群保存地区が3カ所ある。倉敷市の倉敷川畔、高梁市の吹屋ベンガラの町、そしてこの城東地区だ。津山城を築いた初代津山城主森忠政は城下町づくりの際、城の周囲や北部を武家町、南側の東西に走る出雲街道沿いを商家町とした。商家町には作州(美作国)一円から商人を集めた。その城東の出雲街道沿い、東西約1050m(約8ヘクタール)が重伝建保存地区になっている。

 保存地区内には道路が折れ曲がる枡形が2カ所あり、江戸~明治時代に建てられた商家などが今も多く残る。特徴は二階部分が低く、左右に〝袖壁〟と呼ばれるうだつのような白い壁が立つ建物が多いこと。出格子や虫籠窓、なまこ壁も多く見られた。シンボル的な建物が町家の白壁と高い火の見櫓が目を引く「作州城東屋敷」。そばに「寅さんロケ地」という石碑が立ち、津山まつりに曳き出されるだんじり4台を飾る「だんじり展示館」もあった。

 

 東に進むと国指定史跡の「箕作阮甫(みのさくげんぽ)旧宅」がある。江戸後期の蘭方医・洋学者で、幕末の米使節ペリーやロシア使節プチャーチンの来航時に外交文書の翻訳などで活躍したことで知られる。その箕作が生まれ育った場所に家屋が忠実に再現されている。その隣には箕作をはじめ美作地域出身の洋学者の功績を紹介する洋風建物「津山洋学資料館」、その先には江戸時代の商家を保存した「城東むかし町家(旧梶村家住宅)」もあった。

   

 保存地区の西側を流れる宮川沿いの左岸を北上していると「十一面観世音菩薩像」と書かれた木柱が目に留まった。その菩薩像は慈恩寺の本尊で、大観音堂に祀られていた。高さ約4.6m。樹齢約2000年の木曽桧の一木造りという。脇仏の四天王像の高さも約3mある。いずれも仏師の竹内勝山氏(1865~1937)が大正時代初期に6年がかりで制作した。階段を上がって菩薩のお顔と対面できるようになっていた。

 

【旧津山藩別邸庭園「衆楽園」は国指定名勝】

 津山城から北側へ徒歩15分ほどの距離にある「衆楽園」は旧津山藩別邸の池泉回遊式庭園。国指定の名勝になっている。津山藩主森長継が1650年代に京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた。当時の広さは今の3倍近い約2万4000坪もあったが、明治4年の廃藩後、大半の建物が取り壊された。津山藩では防衛の観点から城内に他藩の使者を入れず、この庭園内の御殿で対応したことから「御対面所」と呼ばれていたそうだ。

 

 庭園は京都の仙洞御所を模したもので、南北に長い池の中に蓬莱島など大小4つの島を配し、様々な形の橋で結ぶ。北側には幅2mほどの曲水が二つ並行し涼しげに流れるなど、あちこちに大名庭園の面影を残していた。真っ赤に映える紅葉も美しい。北西側の松の巨木が林立する下には「絲桜水にも地にも枝を垂れ」と刻まれた山口誓子の歌碑。その近くで七五三のお参りの帰途だろう、正装した家族に連れられた赤い晴れ着姿の女の子が記念写真に納まっていた。

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<津山散策㊤津山城跡> 往時の豪壮な城郭を物語る重厚な石垣

2019年11月15日 | 旅・想い出写真館

【ここにもあった! 天守台の石垣に幸せのハート石】

 岡山県の北部に位置する城下町津山。津山城は江戸時代の初期、美作津山藩の初代藩主森忠政(1570~1634、森蘭丸の弟)によって鶴山(つるやま)の古城跡に築かれた。築城に13年を要したという。しかし2半世紀後、廃城令で天守閣をはじめ全ての建物は取り壊される。残ったのは石垣だけだが、その高くて重厚な石垣が豪壮だった往時の城郭を偲ばせてくれた。

 城跡は1963年に国の史跡に指定され、いま鶴山(かくざん)公園として市民憩いの場になっている。2005年には築城開始400年を記念して、本丸から南側に張り出した石垣上に備中櫓(びっちゅうやぐら)が復元・公開された。古い絵図によると、この櫓内には御座之間、御茶席、御上段などがあった。通常の櫓にはまれな全室畳敷き、天井張りという構造で、天守閣に次ぐシンボル的な建物だったとみられる。絵図に基づき御殿建築として復元された備中櫓は遠くからも眺めることができる市民自慢の新しいシンボルだ。

 

 備中櫓の室内を見学させてもらった後、北側の天守台に向かった。天守は地下1階地上5階建てで、高さは約22mだったという。地下から地上に登る石段脇の石垣に大きなハート形の石があった。近くに「愛の奇石」と書かれた案内板。それによると「この奇石に触れたカップルは恋が成就すると密かな恋愛スポットになっています」。そういえば、9月に訪れた四国の丸亀城にも石垣の中に「幸運のハート石」があったなあ。

 

 石段を登り、上から地下部分を見下ろす。そこには天守の柱を支えた四角形の平らな礎石が並んでいた。柱は約38cm角という巨大なものだったという。案内板にまだ天守が現存していた頃の白黒写真が焼き付けられていた。その勇壮なこと。スマートな〝層塔型〟と呼ばれる構造で、下層から上層にいくに従って建物の幅が小さくなっていく。城跡は県内有数の桜の名所。「さくら名所100選」にも選ばれている。観光用のチラシに必ず登場するのも満開の桜の背後にそびえる備中櫓の写真。次は「津山さくらまつり」の頃に再訪したいものだ。

 

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<津観音> 日本三観音の一つ 浅草・大須とともに

2019年10月28日 | 旅・想い出写真館

【本堂脇に映画監督小津安二郎の記念碑!】

 三重県津市の恵日山観音寺大宝院(通称「津観音」)は真言宗醍醐派の古刹で、東京の浅草寺、名古屋の大須観音と並んで日本三観音の一つに数えられている。開創は約1300年前の709年(和銅2年)まで遡る。伊勢国の阿漕ケ浦で漁師の網に掛かった聖観音立像を祀ったのが始まりという。かつては観音堂を中心に七つの塔頭寺院を擁する本山で、伊勢神宮への参拝者の多くが津観音にも立ち寄るようになって「津観音に参らねば片参り」とまでいわれたそうだ。

 その大伽藍も残念ながら1945年の空襲で多くの寺宝とともに焼失してしまった。ただ、津観音は今も市民の心の拠りどころになっているという。市内最大の祭り「津まつり」(10月)では津観音が神輿を安置するお旅所になっており、境内では郷土芸能の披露などもあって多くの市民でにぎわう。また「つ七夕まつり」(7月7日)でも津観音から観音橋一帯にかけて例年大変なにぎわいを見せるそうだ。

 

 朱塗りの山門の真下中央に「撫で石」という自然石が置かれていた。四国88カ所の第60番札所横峰寺から齎(もたら)されたもの。全国各地の天満宮などに鎮座する「撫で牛」や賓頭廬(びんずる)さんのような「撫で仏」同様に、石を撫でた手で体の悪い部分を触ると良くなるという言い伝えがあるそうだ。境内で唯一戦火を免れたのが地蔵菩薩像。毎年7月28日にはその像の前で「平和と感謝の祈り」が捧げられる。

 本堂に向かって右手にまだ新しそうな黒い石碑が立っていた。「小津安二郎記念碑」。えっ、なぜ? 小津安二郎(1903~63)といえば原節子主演の『東京物語』などで知られる世界的な映画監督。石碑は4年前の2015年春に建立された。碑にはこう刻まれていた。「おばあさんが津の宿屋町に住んでいる。朝早く僕はおばあさんの前に久振りに両手をついて殊の外真面目に云った―行ってまいります。おばあさんは笑いながら―またおいなされ。僕はなんだか悲しくなった」

 小津は東京・深川生まれだが、父の郷里が松阪だったことから9歳の頃から約10年間三重県で過ごしたという。祖母も母も津生まれ津育ちだった。そのため小津はしばしば津を訪ね、津観音の境内にあった映画館に行ったこともあった。代用教員などを経て松竹に入っていた小津は1927年、23歳のとき監督に昇進する。ところがその年、久居(現津市)にあった陸軍歩兵連隊に短期入隊することに。

 碑文は入隊する朝の祖母とのやり取りを記し中学時代の友人に宛てた手紙からの抜粋だった。小津は祖母宅を出て軽便鉄道で久居に向かう。その車内から目にした彼岸花が小津の記憶に強く刻まれた。碑文の最後に「おいなされ又このつぎに彼岸草」という句が添えられていた。小津は1958年『彼岸花』というタイトルの映画を制作している。短期入隊から約31年後。小津にとって初めてのカラー作品だった。

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<津城跡> 築城の名手、藤堂高虎が大改修

2019年10月25日 | 旅・想い出写真館

【荒廃した町の再興にも手腕を発揮】

 戦国武将藤堂高虎(1556~1630)は築城の名手として広く名を馳せた。彼が築城・修築を手掛けた城は全国各地に点在する。宇和島城、今治城、伊賀上野城、伏見城、江戸城、篠山城、大坂城、二条城……。津城(三重県津市丸之内)もその一つ。四国の伊予今治から初代津藩主として入城した高虎は1611年、自身の居城として津城を大改修した。

 津城はもともと織田信包(信長の弟)らの居城だったが、高虎は北側の石垣を高く積み増して東西両隅に三重の櫓を築くなど、近代的な城郭として整備した。明治維新後、天守や櫓など建物は全て取り壊され堀も大半が埋め立てられたが、本丸・西之丸の石垣や内堀の一部が今も往時の姿をとどめている。2年前には日本城郭協会から「続日本100名城」に選定された。

 

 三重県指定史跡でもある津城跡は「お城公園」として市民の憩いの場になっている。公園の一角には馬上姿の高虎像がそびえ立つ。公園内には10代藩主藤堂高兌(たかさわ)が1820年に創設した藩校「有造館」の正門「入徳門」も移築・保存されている。高虎は城下町の復興にも力を注いだ。城を中心として武家屋敷や町屋、寺町を整然と配置し、伊勢街道を城下に取り入れるなど町並みを整備した。町の目抜き通りにも高虎の銅像が飾られていた。そこにも「全国各地のまちづくりも手がけ、まちづくりの名手として有名になりました」と功績が刻まれていた。

 

 津市では毎年4月と11月、高虎に因んだイベント「高虎楽座」がにぎやかに開かれる。そこで活躍するのが創作和太鼓チーム「津高虎太鼓」。高い演奏技術で知られ、ニューヨークのカーネギーホールで演奏したこともあるという。津市PRのご当地キャラ「シロモチくん」も当然高虎に因む。高虎が若い頃、餅屋の主人から受けた恩を忘れないようにと、シロモチ(白い三つ丸餅)を旗印にしたという逸話から生まれた。最近ではドッグサンド専門店「高虎ドッグ」が人気を集めているそうだ。市民の高虎に寄せる愛着は半端じゃない!

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<広島・縮景園>上田宗箇作庭、清水七郎右衛門が大改修

2019年10月21日 | 旅・想い出写真館

【国の名勝、広島県立美術館に隣接する池泉回遊式庭園】

 国の名勝「縮景園」(広島市中区)は大名庭園の先駆けといわれる。浅野長晟(ながあきら)が広島浅野藩の初代藩主として1619年入国した翌年から別邸として「泉水屋敷」の築成が始まった。当時「御泉水」と呼ばれた庭の作庭を担当したのが浅野家家老の上田重安(宗箇)。茶人・造園家としても名を馳せた宗箇は徳島城表御殿庭園、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園(和歌山県紀の川市)、名古屋城二の丸庭園などを手掛けたことでも知られる。

 ただ縮景園がほぼ現在のような規模と姿になったのはおよそ1世紀半後の1780年代の〝天明の大改修〟による。7代藩主浅野重晟が京都から庭師清水七郎右衛門(尾道出身)を呼び寄せて改修させた。庭園中央に濯纓池(たくえいち)が広がり、跨虹橋(ここうきょう、通称「太鼓橋」)が南北を結ぶ。池の中には大小10余りの島々。ほとりには茅葺きの四阿(あずまや)「悠々亭」などが立つ。これらも清水の手によって造られた。池の島々は参勤交代の途上、船上から眺めた瀬戸内海の多島美を再現させたものといわれる。

 

 池の北側のやや小高い所に「慰霊」と刻まれた原爆慰霊碑が立っていた。案内板によると、1枚の写真がもとで約30年前の1987年7月末、この場所から埋葬された原爆死没者の遺体が見つかった。発掘された遺骨は64体分に上り、その翌月、平和記念公園内の原爆供養塔に納骨された。以来、毎年ここで慰霊祭が開かれているそうだ。

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<旧徳島城表御殿庭園> 南側に枯山水、北側に築山泉水庭

2019年10月01日 | 旅・想い出写真館

【阿波特産の青石を多用、作庭は茶人武将上田宗箇?】

 「旧徳島城表御殿庭園」(国の名勝)は徳島藩蜂須賀家の居城徳島城の表御殿に設けられた回遊式の庭園。広さは5000㎡強で、南側の枯山水と北側の築山泉水庭という全く趣が異なる2つの庭園からなる。織豊時代~江戸時代初期に活躍した茶人武将で造園家の上田宗箇(1563~1650)が藩祖の蜂須賀家政の依頼により作庭したといわれる。

 庭内には阿波特産の「青石」と呼ばれる緑泥片岩が多く使われているのが特徴。とりわけ枯山水庭の砂紋の上に渡された自然石の青石橋(長さ10.5m、重さ約13トン)には圧倒的な存在感が漂う。この石橋には途中で大きな割れ目が入っている。それにはこんな伝説も。初代藩主蜂須賀至鎮(よししげ、家政の長男)は徳川家から迎え入れた正室氏姫が幕府の陰謀で毒を盛ったと思い込み、悔しくて地団駄を踏んで石橋を割ってしまった――。ただ実際には夫婦睦まじく仲は良かったともいわれる。青石橋の少し先には御影石を長方形に加工した切石橋(長さ6m)が架かる。

 

 先に進むと右手の築山に不思議な形の岩が鎮座していた。子孫の繁栄を祈る「陰陽石」。その異様な姿から骸骨にも見立てられている。穴の内側に耳を寄せると地獄の釜のたぎる音が聞こえるとも。城内には飲み水確保のため何箇所も井戸が掘られた。園内にも花崗岩や御影石を刳り貫いた井戸の井筒が残っている。藩主が暮らした御殿の鬼門に当たる東北の小高い場所には観音様を祀った観音堂とみられる遺構があった。

 

 その観音山から湧水が渓谷を下って心字池に注ぐ。無数の青石を使った豪快な石組が渓谷や池の周りをぐるっと囲む。江戸時代、池は東側の内堀と地下樋道で結ばれており潮の干満とともに水位が変化した。このため「潮入り庭園」とも呼ばれた。園内には桃山時代に大名が好んだという蘇鉄が17株も現存しているそうだ。この味わい深い庭園、入園料はたったの50円、しかも65歳以上は無料。徳島市民が羨ましくなった。

 

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<徳島中央公園> 海蝕痕、貝塚、青石の石垣、楠の巨木…

2019年09月30日 | 旅・想い出写真館

【「日本の100名城」徳島城跡、見どころ多彩!】

 JR徳島駅から程近い徳島中央公園。国の史跡で「日本の100名城」にも選ばれている徳島城跡を利用して整備された公園で、1989年には「日本の都市公園100選」にも選定されている。久しぶりに徳島を訪れたのを機に、公園の中心に位置する城山の周りをぐるっと一周した。そこには数千年前の海蝕痕や貝塚に、城の石垣、平和記念塔、クスノキの巨木、文学碑、蒸気機関車などもあって実に見どころいっぱいの公園だった。

 城山の東側に波の浸食作用による海蝕痕が数カ所あった。岩肌に残る円形の窪みは波に浸食された跡で、縄文時代前期の5000~6000年前に一帯が海の波打ち際だったことを示す。海蝕痕の近くからは縄文時代後期~晩期の2300~4000年前とみられる貝塚も3カ所見つかった。その1つからはハマグリやカキなどを中心に厚さが60~100cmにも及ぶ貝の層が見つかり、ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨も出土した。

 

 徳島藩主蜂須賀氏の居城だった徳島城は明治初期の廃城令で建物の大半が取り壊され、本丸東側の石垣などが往時の面影を残す。ただ城山は標高約62mとあまり高くないものの、案内板によると「斜面は急で傾度の平均は35.9度」。それを見て足首を痛めていることもあって登るのを断念した。しかし城山の麓にも何カ所か石垣が残っている。石垣に使われているのは「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩。青みがかった石垣は他の城の石垣にない渋みを放っていた。その近くに「竜王さんのクス」と呼ばれる城山最大のクスノキの古木があった。85年前の室戸台風で倒壊したそうだ。

 

 「子供平和記念塔」は終戦まもない1948年に竣工した。高さは4.6mで、最上部にブロンズ製の小便小僧が立つ。総工費36万8000円は全額徳島県下の子どもたちの献金で賄ったという。塔に埋め込まれている石は全国の小中学生やアメリカの子どもたちから送られてきた石や化石で、当時の皇太子(現上皇さま)から贈られた那智の名石2個も含まれているそうだ。園内には徳島城を築いた蜂須賀家政(1558~1639)の像や地元出身の推理作家海野十三(1897~1949)の文学碑、徳島県遺族会が建立した「父の像」、大正~昭和時代に県内を走り回った8620形式蒸気機関車なども展示されている。市民の間からは徳島中央公園の名称を「徳島城公園」あるいは「徳島城址公園」へ変えてほしいという要望も出ているそうだ。

 

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<香川・引田> 往時の繁栄を偲ばせる町並み

2019年09月25日 | 旅・想い出写真館

【織豊時代の石垣が残る引田城、「続日本100名城」にも】

 香川県の東の端に位置する東かがわ市引田(ひけた)。古くから播磨灘に面した天然の良港として知られ、高松と徳島を結ぶ国道11号が南北に貫く。交通の要衝として中世には引田城の城下町として栄え、廃城後も回船業や漁業、醤油や砂糖の製造などで栄えた。旧阿波街道沿いを中心に今も往時の繁栄を偲ばせる豪商の屋敷跡などが点在している。

 とりわけ目を引くのがなまこ壁とベンガラの赤壁が印象的な「かめびし屋(岡田家)」。1753年創業の老舗の醤油醸造元で、店舗や蔵など18棟が国の登録有形文化財になっている。醤油の製法は国内唯一という〝筵麹(むしろこうじ)法〟による長期熟成。店内では醤油の販売のほか、飲食メニューとしてうどんやピザなども提供している。

 

 そばの御幸橋を渡って誉田(ほんだ)八幡宮に向かう途中、右手になんとも不思議な円形の石を積み重ねた石垣があった。この丸い石、サトウキビを搾るために使った石臼という。引田はかつて「和三盆糖」と呼ばれる高級砂糖の原料、サトウキビの一大産地だった。讃岐和三盆は地元の伝統産業として今も守り続けられている。観光客向けに〝和三盆型抜き体験〟を行っているのが観光交流拠点の「讃州井筒屋敷」。この施設は江戸時代~昭和末期に井筒屋として醤油と清酒の醸造業を営んだ豪商佐野家の屋敷で、合併前の旧引田町が買収し2005年にリニューアルオープンした。

 

  引田にはほかにも往時の佇まいを残す屋敷が少なくない。日下家は江戸初期から明治初期まで続いた大庄屋で、旧家の岡田家、佐野家とともに引田御三家と呼ばれた。長崎家は江戸後期に創業した回船業者、松村家は魚の卸商や薬種商などを営んだ。旧引田郵便局は昭和初期建築のレトロな洋風建築で、今は喫茶店として営業している。これらも国の有形登録文化財。

 

 引田城跡は引田港を挟んで町の北側に位置する城山(標高82m)にある。築城時期は不明だが、戦国時代には阿波三好氏との間で攻防が繰り広げられ城主も何度か入れ替わった。1587年に播州赤穂から入城したのが豊臣秀吉の家臣生駒親正(1526~1603)。ただ讃岐国を治めるには地理的に東に偏りすぎとして程なく宇多津、高松に移った。城は一国一城令で1615年に廃城となるが、生駒氏が築いた石垣や曲輪などは今も残る。2年前の2017年には日本城郭協会により「続日本100名城」に選ばれた。

 

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<栗林公園> 降り蹲踞(つくばい)が小川の中に!

2019年09月24日 | 旅・想い出写真館

【石組みや置き石にも深い味わい】

 江戸時代に造られた大名庭園、栗林公園(高松市)は紫雲山を背景に6つの池と13の築山を配した池泉回遊式庭園。約75ヘクタールもの広さがあり、全国36カ所の特別名勝の中でも最大の面積を誇る。「箱松」「屏風松」「お手植え松」など手入れの行き届いた個性的な松の木々が人気を集めているが、巧みに配された石組みや置き石も味わい深い。明治43年(1910年)の高等小学読本に「木石ノ雅趣…三公園(兼六園・後楽園・偕楽園)ニ優レリ」。その雅趣をもう一度満喫しようと3年ぶりに栗林公園を訪ねた。

 石州流の茶室「日暮亭」そばの小川の中に風流な〝降り蹲踞(おりつくばい)〟がある。高松藩5代藩主松平頼恭(1711~71)の頃、この小川に沿って「戞玉亭(かつぎょくてい)」という茶室があった。茶室はその後移築されたが、この降り蹲踞は当時使われていたという貴重な遺構だ。小川の中に右側から前石、手燭石、湯桶石、手水鉢が並ぶ。その手前にある円形の井筒は南側にある涵翠池から送られた水が湧き上がる仕掛けになっている。

 

 栗林公園の置き石として有名なのが「見返り獅子」と「ぼたん石」。いずれも自然石で、獅子が振り返った姿やボタンの花に似ていることから名付けられた。江戸時代には大名が築庭する際、各藩の藩主が名木や奇石などを贈り合う習慣があったそうだ。園内にも薩摩藩主の島津公から贈られたという朝鮮半島産の「鶏林石」があるが、この2つの置き石もさる大名からの贈り物なのだろうか。

 

 南湖の中に「仙磯(せんぎ)」と名付けられた岩組みが浮かぶ。仙人が住むという中国の伝説の理想郷を表したもので「蓬莱島」とも呼ばれている。「小普陀(しょうふだ)」は100個余りの石組みの小高い築山。園内の石組みの中では最も古いもので、栗林公園が始まった場所ともいわれる。小普陀の名は中国の霊場普陀山に因む。西湖の西側には「石壁(赤壁)」と呼ばれる自然の高い岸壁がそそり立つ。流れ落ちる滝は人工的に造られた「桶樋滝(おけどいたき)」。かつては背後の紫雲山の中腹に置かれた桶まで人力で水を汲み上げていたという。今は西湖の水をポンプアップして流しているそうだ。

 

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<丸亀城> 石垣の名城 現存木造天守としては最小

2019年09月22日 | 旅・想い出写真館

【見返り坂、扇の勾配、悲しい伝説の二の丸井戸……】

 全国に12カ所しかない木造天守のうち4つが四国に現存する。松山城、宇和島城、高知城、そしてこの丸亀城(別名亀山城・蓬莱城)。現存12天守はいずれも国宝または国の重要文化財に指定されている。重文の丸亀城は高さが約15mで、12天守の中では最も小さい。ただ山全体を高い石垣で強固に堅め亀山(標高66m)山頂に築かれた城は美しい〝石垣の名城〟として広く知られる。

 北側の大手門をくぐって天守に向かうと、まず迎えてくれるのが長くて急な坂道。途中で右に曲がると勾配はますますきつくなる。あまりに急なため登ってきた道をつい振り返ってしまうため「見返り坂」と名付けられた。登っていた若い女性も「急すぎでしょ、この坂」とぼやいていた。三の丸に至るその坂の右手には高さが20mを超える城壁がそびえる。美しい曲線を描いた算木積みの石垣は「扇の勾配」と呼ばれている。

 

 天守は入母屋造り、本瓦葺きの三層三階建て。壁面は白漆喰の総塗籠で、唐破風や千鳥破風などの意匠を凝らす。そばで見上げると小ぶりながら毅然とした風格と佇まい、均整のとれた美しさについ見とれてしまった。昭和の解体修理のとき見つかった板札から、天守の完成は万治3年(1660年)とみられる。四国の現存4天守の中では最も古い。天守からの眺めも素晴らしい。眼下の丸亀の市街地の向こうに〝讃岐富士〟といわれる飯野山や瀬戸大橋などをくっきりと望むことができた。

  

 丸亀城には築城にまつわる悲しい伝説が残っている。その一つが石垣を築いた〝裸重三〟こと羽坂重三郎にまつわる二の丸井戸伝説。殿様が石垣を前に「これでは空飛ぶ鳥以外に城壁を乗り越えるものはあるまい」と絶賛する。これに重三郎は「尺あまりの鉄棒を下されば容易に登れます」と言って目の前ですいすいと登ってしまった。殿様は重三郎が外敵に通じることを恐れ、重三郎が二の丸の井戸(絵図によると深さ約65m)に入っている間に石を落とし殺してしまった――。時の城主は生駒親正とも山崎家治ともいわれている。豆腐売りの人柱伝説もある。城の人柱として捕えられ生き埋めにされた豆腐売りの怨霊が雨の降る夜毎「トーフトーフ」と泣き続けたという。

 

 丸亀城では最近のインスタ映えブームを反映してか、「幸運のハート石」も注目を集めている。その石があるのは大手二の門の真正面の石垣の中。そばに「幸運のハート石 これを触ると良縁のご利益があるとか」と日本語と英語と中国語で書いた案内板が立っていた。ただハート石というほど上側がくぼんでいなくて少々こじつけっぽい感じもしないでもなかったけど……。

 

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