【講師の玉置氏「大阪での3月場所開催は61年前から」】
大阪で開かれている大相撲春場所も両横綱が全勝のまま後半戦へ――。そんな中でタイムリーなテーマの講演会が17日、大阪・靭公園テニスセンター内の大阪スポーツマンクラブで開かれた。大阪自由大学の主催で、元毎日新聞編集委員の玉置通夫氏が「大相撲大阪場所とタニマチ―大阪にあった2つの国技館」のタイトルで講演した。
大阪は江戸時代から京都、江戸とともに相撲興行が盛んだった。1702年(元禄15年)には大阪・堀江で〝晴天興行〟が初めて許可され、1878年には大阪相撲協会が設立された。スポンサーを指す言葉「タニマチ」も谷町筋に相撲を後援する旦那衆が多かったことにちなむ。一方、江戸相撲も寛政年間(1789~1801年)には谷風や雷電、小野川の活躍で盛り上がり、1881年には明治天皇の前で初の天覧相撲が行われた。
「大阪国技館」(写真㊧)は東京の両国国技館に遅れること約10年、1919年に完成した。場所は通天閣に近い「新世界」の一角。1万人収容のドーム型で、建設費50万円は第28代横綱朝日山が負担した。ただ観客席の位置取りが悪くて見にくいなど不評だったらしく10年後には映画館に衣替えしている。
1927年には日本相撲協会が設立された。それまでは東京と大阪の相撲協会がそれぞれ番付を作り、興行も別々に行っていた。1本化の背景には力士の待遇改善運動やスターの不在などがあった。「対等合併だが、実際には東京が大阪を吸収した形。親方の数も東京88人に対し大阪17人で合わせて105人。実力的にも東京が上といわれた」。ただ統一直後の初の本場所では下馬評を覆し大阪相撲の横綱だった宮城山が優勝、大阪勢は溜飲を下げた。
翌28年からはラジオの実況中継が始まった。「相撲界にとってはまさに〝革命〟そのもの」。中継の条件が立ち合いの制限時間の導入だった。それまでは制限がなく、両国対鬼面山の取組では「待った」の応酬で2時間も立たなかったという。中継の開始に合わせ幕内の制限時間が10分(現在は4分)と決まり、仕切り線も初めて引かれるようになった。
双葉山人気が高まる中、1936年には現在の城東区古市の城北川沿いに「関目国技館」が建てられた。4階建てのドーム式で2万5000人収容と国内最大規模だった。しかし結局本場所は行われず准場所が7回行われただけ。戦時色が強まる中、6年後には軍需物資の倉庫に転用され、終戦後には進駐軍に接収された後、1951年ごろに取り壊された。
一方、大阪国技館の建物も1945年の空襲で焼失した。今は温泉施設「スパワールド」のほぼ正面に記念碑が立つ(写真㊨)。大阪市が2002年に建立した。大阪で3月に春場所がおこなわれるようになったのは61年前の1953年から。この年から4場所制になったことに伴うもので、そのときの幕内優勝は大関栃錦だった。
玉置氏はこのほかにも▽欧化政策が主流となる明治維新のときチョンマゲ姿の相撲界は大ピンチに追い込まれた▽終戦後には厳しい食料事情の中で力士の腹もへこんでまわしがずり落ち反則負けすることもあった――など様々な裏話を明かしてくれた。
明治維新のピンチを乗り越えたのは明治天皇や政府の重鎮の中に板垣退助のような相撲好きがいたこと、力士が火消しの手伝いとして活躍したり地方巡業中の梅ケ谷が「秋月の乱」(1876年)の暴徒を鎮圧したりして力士が見直されたことなどが大きかったそうだ。大阪場所が「荒れる春場所」といわれるのは、寒暖差が大きい時期に当たって体調を崩す力士が多いことも一因ではないかと話していた。