く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<大阪スポーツマンクラブ> 玉置会長講演「田中のボストンマラソン制覇」

2015年10月31日 | スポーツ

【昭和26年に19歳日大生、日本の陸上界を活気づけた快挙!】

 大阪市西区の大阪スポーツマンクラブ会議室(靭テニスセンター地下)で29日、「田中のボストンマラソン制覇」をテーマに同クラブ会長玉置通夫氏の講演があった。同クラブと大阪自由大学共催の連続講座「戦後70年とスポーツ」の一環。若干19歳の大学生、田中茂樹が第55回ボストンマラソンを制したのは戦後まもない1951年(昭和26年)4月19日のこと。日本の陸上界はその快挙に沸き、田中は現地の黒人社会からも大歓迎を受けたという。

   

   当時の毎日新聞社会面(昭和26年4月21日付)は「田中堂々優勝す」と3段見出しで大きく扱い、ゴールする田中の写真も添えている。「〝原爆の子〟十九歳の田中茂樹選手は好調に快走、群がる強豪を一しゅうしてゴールに飛び込み、2時間27分45秒で優勝し、ダイヤ入りのメダルを獲得、栄冠は太平洋を渡ってアジヤに輝いた」。マラソン大会として最も古い歴史を持つボストンで欧米人以外が優勝したのは初めて。同じ紙面のアタマ記事は「マ元帥の記録映画 六月に日本でも公開」だった。

 敗戦で日本は世界の水泳や陸上などの競技連盟から除名されており、48年のロンドン五輪出場も阻まれていた。敗戦から6年目。51年のボストンマラソンは日本の陸上界が戦後初めて海外に送り込んだ国際舞台だった。派遣したのは田中茂樹をはじめ小林舜治、内川義高、拝郷弘美の4人。日本人選手は全く下馬評にも上がってなかったが、ふたを開けると田中が終盤の心臓破りの丘でスパートして2位の米国人に3分以上の大差をつけて優勝。さらに小林5位、内川8位、拝郷9位と4人全員が入賞(10位まで)を果たした。

 「これまで日本勢は誰も参加したことがなく未知の大会だったが、敢然と挑んだ日本大学1年生の田中が金的を射止めたのだから、大きな話題とならないはずがなかった」。田中は広島県比婆郡敷信村(現庄原市)の出身。高校までの砂利道4キロを毎日走って登校していた田中は中国駅伝で大活躍。ボストン出場はスカウトされて日大に進学した直後のことだった。

 田中は14歳のとき、遠くで大きな光を見たという。それは広島に投下された原爆とみられる。その広島出身の田中の優勝をボストンの地元新聞は「アトムボーイが快挙」の見出しで大きく報じた。田中自身、レース後「原爆を落としたアメリカ人に負けてたまるか、という気持ちで走った」と話したそうだ。地元の黒人たちからも「(自分たちを差別する)白人をやっつけてくれて、こんなに胸のすくことはない」と大歓待を受けた。

 田中は一躍、翌年に迫ったヘルシンキ五輪の有力候補に躍り出る。しかし、練習中に足を痛めて選に漏れ、その後は目立った活躍がないまま第一線を退き日本陸連理事などを務めた。現在もご健在で、後進の指導を続けているという。「選手としては不遇に終わったが、田中のボストンでの力走に刺激されて、日本のマラソン界が活気づいたのは間違いない」。ヘルシンキ五輪ではメダルを逃したものの、翌1953年のボストンマラソンを山田敬蔵が、55年のボストンも浜村秀雄が制して、日本は世界のマラソン界の強豪国としての地歩を固めた。

 連続講座「戦後70年とスポーツ」の今後の日程とテーマは以下の通り。11月5日「佐伯通達と柳川事件」、12日「モスクワ五輪ボイコット」、19日「江川事件」。いずれも午後2時~3時半、大阪スポーツマンクラブ会議室で。受講料各1000円。

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<橿原市博物館> 秋季企画展「顔、カオ、かお~顔面表現の考古学」

2015年10月29日 | 考古・歴史

【人を描いた土器・土偶など62点、頭蓋骨から復元した縄文~古墳時代の顔も】

 奈良県の「歴史に憩う橿原市博物館」で、秋季企画展「顔、カオ、かお~顔面表現の考古学」が開かれている。県内の遺跡から出土した人面墨書土器や土偶、木製人形などをもとに、縄文・弥生時代から中世・近世まで時代を追って人の顔の表現の変遷を辿る。11月29日まで。

  

 縄文時代の顔の表現は単純かつ平面的で、奈良盆地から出土した土偶は耳と口のみを表現したものが多い。弥生時代になると線刻や刺突で描かれた絵画表現が現れ、顔面に入れ墨を刻んだものも登場する。弥生時代の環濠集落、唐古・鍵遺跡(田原本町)からは目と鼻と口が立体的に表現された人形土製品(写真㊥、弥生中期)が出土している。

 古墳時代に入ると顔面表現はより写実的に。人物埴輪には鼻や髭、髪型などをリアルに表現したものが現れ、表情を持つものも見られる。ちょうど奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)でも特別展「人のかたちの埴輪はなぜ創られたのか」(11月23日まで)が開かれているが、そこに出品中の「盾持人埴輪」(写真㊨)は口を大きく開け笑っているようにも見える。国史跡の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(桜井市)から出土したもので、人物埴輪としては国内最古ともいわれる。

 飛鳥~奈良時代になると、石神遺跡(明日香村)の石造男女像のような立体物だけでなく、高松塚古墳壁画や法隆寺仏像台座人物画など絵画でも写実的な表現が見られる。この時代には瞳が描かれるようになり、出土品の中にはイラン系など外国人の顔を模した表現も現れる。平安時代以降は人面墨書土器や板絵などに個性豊かな顔の表情が描かれ、絵画では様々な角度から顔が描かれている。江戸時代には浮世絵でデフォルメが進み、顔面表現も定型化していく。会場には県内各地から出土した頭蓋骨をもとに復元した縄文~古墳時代の男女の顔4体も展示中。

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<天橋立> 蕪村や与謝野寛・晶子も詠んだ日本三景

2015年10月28日 | メモ

【芭蕉の歌碑や岩見重太郎仇討ちの石碑も】

 丹後半島の付け根にある天橋立。さすが日本三景と1つといわれるだけあって、多くの文人墨客が訪れては歌に詠み、絵を描いた。雪舟は『天橋立図』(国宝)を描き、俳人・画家の与謝蕪村は『天橋図賛』を残した。天橋立には蕪村や与謝野寛(鉄幹)・晶子などの歌碑が立つ。

 

 蕪村の生まれは摂津国(今の大阪市都島区)といわれるが、母親が丹後・与謝の人だったことから与謝を名乗ったそうだ。1754年、蕪村39歳の時、宮津の見性寺に住職竹渓を訪ね、約3年半滞在した。「はし立や松は月日のこぼれ種」。天橋立神社のそばに立つ句碑(上の写真㊨)に刻まれた句は、この「丹後時代」に橋立を訪れた時に詠んだものといわれる。蕪村は宮津を離れる時「せきれいの尾やはし立をあと荷物」の句を残し京都に向かった。

 

 与謝野寛・晶子は寛の父親が丹後の加悦(かや、現与謝野町)出身だったため、天橋立にも度々足を運んだ。1930年には2泊して寛が45首、晶子が60首を詠んだ。仲良く並ぶ歌碑(写真㊧)には「小雨はれみどりとあけの虹ながる与謝の細江の朝のさざ波」(寛)と「人おして回旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立」(晶子)が刻まれている。

 松尾芭蕉の古い句碑もある(写真)。「一声の江に横たふやほととぎす」。天橋立の南側にある智恩寺(日本三文殊の一つ)に江戸中期の1767年に建立されたものが、明治時代になって天橋立に移設された。芭蕉が天橋立を訪ねたという証拠はない。だが、名高い芭蕉の塚がないのを宮津の俳諧愛好者たちが残念がって建立したそうだ。碑に刻まれた句自体も芭蕉が江戸・隅田川の風情を詠んだものといわれる。

 

 句碑・歌碑の近くに「岩見重太郎仇討ちの場」という石碑が立つ(写真㊧)。岩見は江戸時代の初めに活躍したと伝わる剣豪で、父の仇の3人をここで討ち取り本懐を遂げたという。岩見には天橋立で毎夜参拝者や通行人を襲っていた「元伊勢籠(この)神社」の狛犬の足首を切って その夜行を止めたという伝説も残る。この元伊勢籠神社は天橋立の北側に鎮座する丹後の一宮。日本最古の系図『海部氏系図』(国宝)が伝わることでも知られる。その神社に伝説の狛犬がいた。鎌倉時代の作といわれ、重要文化財に指定されている。普段目にする狛犬と違って、前後の脚が太くどっしりした重量感が印象的だった。

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<奈良市埋文センター> 秋季特別展「近世奈良の開幕―多聞城と郡山城」

2015年10月25日 | 考古・歴史

【奈良町遺跡に真鍮製品の生産跡、刀の鍔の鋳型など多数出土】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西)で秋季特別展「近世奈良の開幕―多聞城と郡山城」が開かれている。幻の城と呼ばれる多聞城、大和最大の近世城郭の郡山城をはじめ、中世から近世にかけての奈良の金属生産や酒造、製墨など商工業に関する発掘調査の成果を一堂に公開している。12月28日まで。

 

 中でも注目を集めているのが奈良町遺跡の縁辺部に位置する柳町の発掘調査で見つかった17世紀中頃の真鍮(しんちゅう)製品の生産跡。銅と亜鉛で真鍮を作るための蓋付きの坩堝(るつぼ)や真鍮を溶かす把手付きの坩堝(写真㊧)、刀の鍔(つば)や目貫(めぬき)などの鋳型(同㊨)が多数出土した。真鍮製の刀装具を専門的に製作していたとみられ、奈良が京都などとともに武器生産の先進地だったことを示す。

 

 多聞城は松永久秀が佐保山の東南(現・奈良市立若草中学)に築城した近世城郭建築で、長屋状の櫓(やぐら)「多聞櫓」も多聞城が起源とされる。城跡からは珍しい瓦製の建物の一部2点が出土している(写真㊧)。粘土で作った箱を芯とし、その上に屋根を貼り付けて形作ったもので、邪鬼を彫るなど極めて精巧な作り。築城以前にあった寺院に関わる遺物とみられる。また軒丸瓦、軒平瓦がいずれも10型式ずつ出土した(写真㊨)。京都の二条殿(二条良基の邸宅)跡からも多聞城と同笵瓦が出土しており、多聞城廃城後に殿舎が瓦とともに移築されたとの史料を裏付ける。

 郡山城は昨年の発掘調査で天守の規模が5階建てだったと推測され、出土瓦から16世紀末頃の豊臣政権期に建てられたことが分かった。筒井順慶の没後、郡山城に入城し大規模な築城を行ったのは秀吉の弟の豊臣秀長。天守台南の付櫓(つけやぐら)からは金箔が残る菊丸瓦が出土した。奈良奉行所跡(現・奈良女子大学)の北側の堀からは肥前産など江戸初頭の陶磁器類が多く見つかっている。

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<パパイア> 乳白色の5弁花、開花から3~4カ月で果実が成熟

2015年10月24日 | 花の四季

【未熟果は漬物などに、「木瓜」「乳瓜」の別名も】

 トロピカルフルーツの代表格パパイア。メキシコ、西インド諸島、ブラジルなど熱帯アメリカ原産といわれるが、野生種が見つかっておらず原産地は特定できていないそうだ。成長が極めて早く未熟果「青パパイア」の利用価値も高い。そのため熱帯~亜熱帯地方で広く栽培されており、沖縄などでは家庭用果樹として庭で育てる人も多い。

 パパイヤ、パパヤなどとも呼ばれるが、園芸学会が1979年に正式な呼称をパパイアに統一した。青パパイアは野菜のウリと同じように漬物や炒め物などに使われることから「木瓜(もくか)」とも呼ばれる。ただ「木瓜」と書く場合、普通ボケの花を指すことが多い。パパイアは茎や葉、果実などを傷つけると白い乳液を出す。このため「乳瓜(ちちうり)」という別名もある。

 パパイアはもともと雌雄異株で、雌株は果実を付けるが雄株は付けない。性別は最初に花を付けるまで分からないそうだ。雌株は葉の付け根に雄株の花より大きく厚みのある乳白色の5弁花を付ける。その後3~4カ月で果実は青色から次第に黄色に変化して熟す。雌株、雄株とは別に両性で実を付けるものもある。園芸品種には両性のものが多い。果実の形は一般的に雌株が丸みを帯びるのに対し、両性のものは洋ナシ型となる。

 未熟果などから出る乳液は「パパイン」というタンパク質分解酵素を含む。この酵素には肉を軟らかくしたり食物の消化を助けてくれたりする働きがある。また肌の新陳代謝を促して古い角質や毛穴の汚れなどを取り除いてくれるとして、酵素配合の洗顔パウダーや石鹸、入浴剤などが相次いで発売されている。さらに皮膚の治療薬や椎間板ヘルニアの注射薬など医療分野にも利用されている。

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<奈良県立美術館> 企画展「錦絵誕生250年―浮世絵版画 美の大世界」

2015年10月21日 | 美術

【広重の「名所江戸百景」、写楽の役者絵、北斎の「富嶽三十六景」…】

 奈良県立美術館(奈良市)で企画展「錦絵誕生250年―浮世絵版画 美の大世界」が開かれている。錦絵は明和2年(1765年)に江戸で浮世絵の多色刷り技法が確立され「東錦絵」として売り出されたのが始まり。今年はちょうど250周年に当たることもあって、全国各地で浮世絵展が企画されている。

   

 奈良県立美術館は日本画家・風俗研究家の吉川観方(1894~1979)からの近世の日本画や浮世絵などのコレクション寄贈を機に開館したこともあって、全国有数の浮世絵収蔵拠点の一つとして知られる。今企画展では会期を前期(~11月9日)・後期(同11日~12月6日)に分けて、歌川広重の「名所江戸百景」全118点(うち2点は借用)をはじめ、葛飾北斎の「富嶽三十六景」2点、東洲斎写楽や歌川豊国の役者絵など逸品の数々を一堂に展示する。

 喜多川歌麿の「隅田川舟遊」(㊤)は3枚続きの大判錦絵で、釣りを楽しむ男女や橋を行き交う大勢の人々が描かれており、江戸の活気と風情が画面にあふれる。広重は風景や花鳥のほか「魚尽し」シリーズとして様々な魚類も多く描いた。前期出品中の「魚尽し ぐじ、かさごと山葵」(㊦)もその1つ。ぐじはアマダイのこと。卓越した観察眼と表現力は見事というほかない。後期にも別の「魚尽し」2点が出品される。

       

 歌川国芳の「人かたまって人になる」は何人もの人が集まって1人の顔を形づくる。「だまし絵」の1種で「寄せ絵」と呼ばれる。国芳はこの分野の浮世絵を得意とした。礒田湖竜斎の「雁来紅うさぎ」は葉鶏頭の陰に1匹の白ウサギを描いたもの。ウサギの輪郭や毛並みに墨線を摺る代わりに線をへこませる〝空摺り〟と呼ばれる技法でウサギの白さを表現した。

 作者不詳の出品作に「四代目瀬川路考の死絵」というのがあった。死絵は歌舞伎役者などが亡くなったとき追善や訃報を知らせるために刊行された版画。路考の生前の舞台姿に「寒菊の寒にも入らず別れかな」という辞世の句が添えられている。浮世絵の中に描かれているものとして江戸時代のお歯黒用の化粧セットやキセル、エビ文様の櫛・簪(かんざし)の金銀細工なども参考展示されている。

   

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<天理図書館> 開館85周年記念展「俳人蕪村―生誕三百年を記念して」

2015年10月20日 | メモ

【未知の212句収録の『夜半亭蕪村句集』も】

 天理大学付属天理図書館(奈良県天理市)で19日から開館85周年記念展「俳人蕪村―生誕三百年を記念して」が始まった。江戸中期の俳人与謝蕪村(1716~83)に関する俳諧書や自画賛、書簡などの新収資料などを公開中。とりわけ注目を集めるのが『夜半亭蕪村句集』(写真㊨)。その句集自体が所在不明だったうえ、中にこれまで全く知られていなかった蕪村作の212句が収められていたからだ。

       

 『夜半亭蕪村句集』は約80年前に一度一部が紹介されて以降、その所在が分からなくなっていた。4年ほど前に同図書館が古書店で入手したという。表題の「夜半亭」は蕪村の別号で、「春夏」と「秋冬」の上下2冊に1903句が収蔵されていた。筆録は安永・天明期(1770~80年代)に蕪村の門弟百池ほか1名によるものとみられる。所々に蕪村筆とみられる朱筆や墨書による書き入れがあった。

 蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句。この『夜半亭蕪村句集』で見つかった逸句212句を加えると一気に約3100句となる。そのうちの1句「傘(からかさ)も化て目のある月夜哉」には「化物題」の表題が付く。化け物をテーマに句会を開いたときの作品だろうか。ほかに「我焼し野に驚や屮(くさ)の花」「蜻吟(ママ)や眼鏡をかけて飛歩行」など。「蜻吟」はトンボの古名の「蜻蛉(かげろう)」とみられる。

 蕪村は画家としても活躍した。新収の自画賛墨画『炭売に』は師走の京の街で炭を売る老人の姿に「炭売に日はくれかゝる師走かな」の賛を添える。『ちる梅の』自画賛や『墨梅図』は太い幹や枝を躍動感ある筆致で描いている。蕪村は京都・祇園会の鉾山のために下図も描いた。『安永6年(1777年)7月9日付書簡』には依頼されていた放下鉾の水引幕の下絵ができたので取りに来るよう記す。その下絵による琴棋書画図を刺繍した水引幕は存在するが、下絵自体の行方は分からないという。

 蕪村の師、夜半亭宋阿(巴人)の33回忌追善集『むかしを今』(蕪村編、安永3年=1774年刊)の序に、蕪村が若き日、師からこう説かれたと記す。「かならず師の句法に泥(なず)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉(こつえん)として前後相かへりみざるがごとく有べし」。蕪村の自由奔放な作句姿勢の裏側には師のこんな教えがあったというわけだ。「大津絵に糞落し行つばめかな」。これは大坂横堀舟町の年寄宛ての『安永8年(1778年)2月23日付書簡』に記した近作発句6句のうちの1つ。そういえば俳聖松尾芭蕉にもこんな句があった。「鶯や餅に糞する縁の先」。記念展は11月8日まで。

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<東大寺で阿波踊り> 豪雨災害からの復興願って奉納

2015年10月19日 | 祭り

【今年で4回目、見物客からの義援金は十津川村へ】

 東大寺の南大門~中門で18日、にぎやかに「奈良県南部災害復興祈願奉納阿波踊り」が繰り広げられた。今年で4回目。奈良徳島県人会の阿波踊り同好会「大仏連」(長尾弘・連長)が中心になって、紀伊半島豪雨災害(2011年9月)の翌年から始めた。この日集まった義援金は11月28日に十津川村に届けられる予定。(写真は東大寺中門前での組踊りの最中に飛び込んできた雌鹿)

 「大仏連」の結成は2002年。会員は現在60人ほどで、「楽しく、元気に、はつらつと」をモットーとし、本場徳島の演舞場をはじめ年間20回ほど遠征したり地域イベントに出場したりしている。今年の東大寺での奉納には関西在住者でつくる「なにわ連」や姫路の「城東連」、神戸の「楠公連」、伊丹の「深雪連」など関西阿波おどり協会加盟のグループも駆け付けた。参加者は総勢約210人。

 

 

 出発点の南大門周辺ではあちこちで、踊り手たちが海外からの観光客らと記念写真に納まっていた。午後1時、連名を掲げた高張り提灯を先頭に出発。大仏殿の入り口に当たる中門までの参道を軽快なリズムに乗って練り歩いた。中門に到着すると、各連が順番に隊形を変えながら踊る〝組踊り〟を披露。踊りの最中に若い雌鹿が飛び入りするハプニングがあり、どっと笑いを誘う場面もあった。最後は全ての連に見物の人たちも加わって、にぎやかなうちに奉納踊りは終幕となった。

 

 

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<ショパン・ピアノコンクール> 小林愛実(20歳)、ファイナル進出が決定! 

2015年10月17日 | 音楽

【8カ国から10人、米とカナダから各2人、韓国期待のソンジン・チョも】

 ポーランド・ワルシャワで開催中の第17回ショパン国際ピアノコンクールで、山口県宇部市出身の若手ピアニスト小林愛実(20)が見事にファイナリスト10人の中の1人に選ばれた。現地時間の16日深夜に発表があった。3日間にわたって行われたセミファイナル(第3次審査)の進出者12カ国20人が8カ国10人に絞られ、18~20日に行われる最終審査に臨む。優勝者をはじめ6人の入賞者は現地時間の20日深夜に発表される予定。(写真は小林さんのCD/DVDアルバム)

   

 日本人出場者は小林をはじめ有島京(23)、中川真耶加(21)、小野田有紗(19)、須藤梨菜(27)の5人が2次審査まで進んでいたが、3次に進出できたのは小林一人だけだった。5年前の第16回大会では2次で日本人全員が敗退していた。小林がピアノを始めたのは3歳のとき。母が小林の人見知りを直そうとピアノ教室に通わせ始めたという。鋭い感性に恵まれた小林はめきめきと腕を上げ、7歳のときに日本のオーケストラと共演デビューを果たした。その後、全日本学生音楽コンクールで史上最年少優勝、ショパン国際コンクールin Asiaで金賞を受賞。ショパン生誕200周年に当たる2010年にはショパンに関する芸術活動で世界の100人の芸術家に贈られる「ショパン・パスポート」をポーランド政府から授与された。現在は米国フィラデルフィアのカーティス音楽院に留学中。

 ファイナルに進出するのは米国とカナダから2人ずつ、そして日本、クロアチア、ラトビア、ポーランド、ロシア、韓国から1人ずつ。10人のうち女性は小林と米国のケイト・リュウ(21、シンガポール生まれ)の2人だけ。韓国のソンジン・チョ(21)は15歳の若さで浜松国際ピアノコンクールを制するなど日本でも知名度が高い。米国のエリック・ル(17)はまだ若いが予備予選免除だけあって実力は折り紙付き。ロシアのドミトリー・シシキン(23)も注目される。地元ポーランドからは15人が本選に出場していたが、ファイナルに残ったのはシモン・ネーリング(20)の1人だけだった。ポーランドと同じく本選最多出場国として注目された中国勢は結局1人も最終審査まで残ることができなかった。

 ファイナルの演奏曲目はショパンのピアノ協奏曲第1番または第2番。オーケストラはワルシャワ・フィル、指揮はヤツェク・カスプシク。最終審査の演奏は現地時間の18日午後6時にスタートする。小林は10人中、韓国、クロアチアのファイナリストに続いて3人目の登場が予定されている。ショパンコンクールでの日本人の最高順位は第8回(1970年)の内田光子の2位。第12回(1990年)には横山幸雄が3位に入賞している。4日後、小林の朗報を心から期待したい。

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<大阪市立大学植物園> 熱帯スイレン、昼も夜もあでやかに開花

2015年10月15日 | 花の四季

【夜咲きは芳香で花粉媒介者を誘引、見頃は今月末頃まで】

 大阪市立大学理学部付属植物園(大阪府交野市)で、熱帯性スイレンがあでやかな花姿を見せている。熱帯性は温帯性に比べ花色が多彩で、青や紫色は熱帯性にしかないという。温帯性スイレンは早朝に咲いて夕方しぼむが、熱帯性には昼咲きのほか、日没後に開いて翌日午前中に閉じる夜咲きがあるというのも特徴の一つ。見頃は10月末頃まで。

 

 同植物園のスイレンは入り口すぐそばの横長の大きな水槽で、熱帯性と温帯性が別々に展示されている。入って左手が熱帯性、右手が温帯性。熱帯性スイレンは水面すれすれに浮かんだように咲く温帯性と違って、花茎を水面から20~30cmほど伸ばして咲くものが多い。熱帯性には葉の縁にノコギリ状のギザギザの切れ込みが入るという特徴もある。

 

 

 夜咲きの熱帯性スイレンは開花するとともに強い芳香を放つものが多い。その芳香で花粉媒介者の夜行性動物(ガや甲虫など)を誘引し花粉を運んでもらう。同植物園では夜咲きスイレンの幻想的な開花の様子を見てもらおうと、毎年、夜間に特別開園している。今年も8月28~29日に実施し、2日間で37人が参加したそうだ。 

 

 写真のスイレンは1段目=㊧レッドフレアー㊨アズレア、2段目=㊧セントルイス・ゴールド㊨マルーン・ビューティー、3段目=㊧コロラタ㊨エミリー・グラント・ハッチング、4段目=㊧H.C.ハースティック㊨ディレクターG.T.ムーア

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<BOOK> 「人生に役立つ都々逸読本 七・七・七・五の法則」

2015年10月14日 | BOOK

【柳家紫文著、海竜社発行】

 著者柳家紫文は三味線演奏家として歌舞伎座などに出演後、1995年に柳家紫朝に弟子入りし演芸に転向。その傍ら、全国各地で都々逸講座を開くなど都々逸の普及に努めてきた。著書に『紫文式 都々逸のススメ』など。都々逸の基本形は「七・七・七・五」。江戸時代の終わりに都々逸坊扇歌という芸人が寄席ではやらせたため「都々逸」と呼ばれるようになったという。

       

 「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」。最初に出てきたのがこの有名な文句。えっ、これが都々逸? 続いて「ざんぎり頭を 叩いてみれば 文明開花の 音がする」。少し遠い存在のように思えていた都々逸が、意外と身近なことにびっくり。「人生の機微が乙に洒脱に『二十六文字』の中に表されており、そのエッセンスは現代を生きる私たちも深く共感し思わずうなずいてしまうものばかりです」(『はじめに』から)。

 序章「知っておきたい名作都々逸」のトップバッターは「惚れた数から 振られた数を 引けば女房が 残るだけ」。続く「三千世界の 鴉(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝が してみたい」はあの高杉晋作の作とか。1~4章から印象に残ったものを以下に列挙――。「ガキの頃から イロハを習い ハの字を忘れて イロばかり」「三味線の 三の糸ほど 苦労をさせて いまさら切るとは ばちあたり」「こぼれ松葉を あれ見やしゃんせ 枯れて落ちても 二人連れ」「案ずるな 炊事洗濯 それだけできりゃ きっと見つかる 婿の口」「親の意見と なすびの花は 千にひとつの 無駄もない」

 各章の間に「コラム」を挟む。それによると「全国の民謡の80%以上は七・七・七・五で都々逸と同じ」とか。歌謡曲にも多いとして、「リンゴの唄」「無法松の一生」「高校三年生」などを挙げる。落語の中に登場するのは「医者の頭に 雀がとまる とまるはずだよ ヤブじゃもの」「落語家殺すにゃ 刃物はいらぬ あくび一つで 即死する」などなど。最後のコラムは「寅さんだって、七・七・七・五」。フーテンの寅さんの口上は「けっこう毛だらけ 猫灰だらけ 尻のまわりは クソだらけ たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋の褌……」。

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<ツノナス(角茄子)> 狐の顔に似た実の形から愛称は「フォックスフェース」

2015年10月13日 | 花の四季

【ブラジル原産、花はナスに似た小さな星形の紫花】

 ブラジル原産のナス科の観賞用植物。元々は低木だが、寒さに弱く日本では冬越しできないため春まき1年草として扱われる。草丈は1~2mほどで、晩夏~初秋に葉の付け根にナスに似た薄紫色の星形の5弁花を付ける。花は小さく目立たないが、晩秋にできる果実のユニークな形や色から、生け花やインテリアの花材として人気を集める。

 果実は初め緑色で、成熟するにつれて黄色くなり光沢を増す。その形は先端が少し尖り、付け根に5個ほどの角状突起が付く。そのため「角茄子」と名付けられた。学名「ソラナム・マンモサム」の種小名「マンモサム」も「乳頭状突起を持つ」を意味する。英名では「nipple fruit(ニップル・フルーツ)」や「lady nipples(レディー・ニップル)」と呼ばれているそうだ。

 日本では正式な和名のツノナスよりも、愛称の「フォックスフェース」として広く知られる。果実を横向きにすると、狐の顔の形に似ていることによるもので、「キツネナス」という別名もある。また、黄色いカナリアが木に止まっているように見えるとして「カナリアナス」とも呼ばれる。

 日本には鹿児島出身の植物学者、故玉利幸次郎(元大阪市立大学教授)が1935年にジャワの植物園から初めて導入した。玉利は熱帯・亜熱帯の珍しい植物を収集し〝日本の園芸植物の育ての親〟ともいわれた。果実は白いスポンジ状で真ん中に黒い種子がある。ただソラニンなどアルカロイド系の毒成分を含むため食用にはならず、口にすると中毒を起こす。

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<奈良県東吉野村> 丹生川上神社で勇壮に「小川祭り」

2015年10月12日 | 祭り

【華やかな太鼓台8台、所狭しと境内で競演!】

 奈良県東吉野村の丹生(にう)川上神社(中社)で11日、「神賑行事・太鼓台奉舁(ほうよ)」(通称「小川祭り」)が繰り広げられた。秋恒例の東吉野村最大の祭り。村内8地区から太鼓台8台が若衆たちに担がれて集結、「ヨーイヤサー」「ヨイトサーノセー」の掛け声も勇ましく境内を練り歩いた。太鼓台が高く持ち上がると、観客から「上がった、上がった」という歓声と拍手が沸き起こった。

 太鼓台はケヤキ製で重さが1~1.5トン。台上には「乗り児(のりこ)」と呼ばれる園児や小学校低学年の男児4人が乗って、真ん中に据え付けられた太鼓を叩く。それに合わせ40~50人の若衆が掛け声を上げながら前後の長い舁(か)き棒で担ぐ。この小川祭りでは太鼓台を「1台、2台」ではなくて「1連(から)、2連」と数えるそうだ。

 

 午後0時半過ぎ、木津川区(こつがわく)、続いて小区(おむらく)の太鼓台が鳥居をくぐって宮入りしてきた。その順番は毎年同じという。屋根の上から龍の彫り物がにらみを利かし、四面を飾る赤い幕には武者の豪華な刺繍などが施されていた。担ぎ手の衣装も華やか。腰下までの派手な半襦袢に短パン、地下足袋姿。

 

 乗り児は神様の使いとして祭礼が終わるまで地面に足を付けない。太鼓台から降りて本殿に参拝するときも若衆の肩車に乗って向かっていた。太鼓台は宮入り後、境内を1~2周した後、近くの摂社丹生神社に参拝。その後、8台の太鼓台が境内の広場に勢ぞろいし、半時計周りに次々と練り歩いた。2台が急接近して太鼓台同士が接触し軋む場面も。かつては激しい競り合いから「喧嘩祭り」と呼ばれたそうだ。

 

 2時間余の競演も午後3時に終了し、この後、御供(餅)まきが行われた。この祭りには毎年、村を離れた若者たちも多くが帰省して参加するという。ダンジリなど勇壮な祭りにはアルコールが付き物。だが、酒で顔が赤らんだり、ふらついたりしていた担ぎ手は一人も見なかった。それもそのはず、太鼓台責任者の各区長を通じ、祭礼中の禁酒を徹底していた。その合言葉は「担ぐなら飲むな、飲むなら担ぐな」とのこと。

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<ハネセンナ(羽根旃那)> 遠目にも鮮やかな黄花が林立

2015年10月10日 | 花の四季

【別名「ゴールデン・キャンドル」「キャンドル・ブッシュ」】

 南米、西インド諸島原産で、主に湿地帯に自生するマメ科センナ属の落葉低木。樹高1~3mで、夏の後半から秋の初めにかけて、枝先や葉の脇から花茎を立ち上げ、丸みを帯びた5弁花を長い花軸に多数付ける。葉の形態は偶数羽状複葉と呼ばれるもので、長い楕円形の小葉が8~12対ほど左右対称に並ぶ。

 鮮やかな花の黄色と直立した花姿から、英名では「ゴールデン・キャンドル」や「キャンドル・ブッシュ」「クリスマス・キャンドル」などと呼ばれる。学名は「Cassia alata(カッシア・アラタ)」。種小名のアラタは「翼(よく)のある」の意で、花後にできる暗褐色の豆果の縁に幅広の翼ができることから。和名はその翼の羽根のような様子から名付けられた。

 センナ属の仲間にはセンナ、コバノセンナ、ハナセンナ、モクセンナ(別名キダチセンナ)などがある。センナはアラビア原産の薬用植物で、葉や果実が下剤や健胃剤として使用される。ハナセンナはブラジル、アルゼンチン原産。その名の通り花を観賞する花木として日本に導入され、「アンデスの乙女」という名前で流通している。

 ハネセンナはセンナと同様、葉などにセンノシドという下剤成分を含む。国の「医薬品の範囲に関する基準」でセンナが〝専ら医薬品〟として食品への使用が禁止されているのに対し、ハネセンナは使用が認められており、ダイエットや便秘改善をうたった健康茶などが広く販売されている。ただ服用者から下痢や腹痛などのトラブル相談も多いことから、国民生活センターは過剰摂取に注意するよう呼び掛けている。

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<福知山市動物園> あの仲良しサル・イノシシ、今も同居・食事も一緒!

2015年10月08日 | 旅・想い出写真館

【もう5歳、イノシシの「ウリ坊」は体重80キロに】

 幼いイノシシの背中にロデオのようにしがみ付くサルの赤ちゃん。その微笑ましい様子がニュースで流れるや、福知山市動物園(京都府)の名前は一躍全国区になった。それから5年。サルの「みわ」ちゃんもイノシシの「ウリ坊」も元気に同じ小屋で生活していた。餌を食べるときも寝るときも一緒という。(写真㊨は福知山市動物園の今年のカレンダーから)

 

 この2匹は5年前、親とはぐれたり親が事故死したため、この動物園に保護された。「みわ」の名前は福知山に隣接する三和町からやって来たことに因み、「ウリ坊」はイノシシの幼い時の愛称がそのまま名前になった。2匹が一緒に暮らすのは園内に入ってすぐ左手にある大きな園舎。「みわ」は元気に走り回り、「ウリ坊」は奥の方で横になって昼寝していた。「ウリ坊」の体重は今や80キロほどもあるそうだ。

 福知山市動物園は市街地北東の三段池公園の一角にある。飼っている動物は70種約350匹。本格的な動物園とは比べるべくもないが、動物と触れ合うことができる身近な動物園として近隣のちびっ子たちの人気は絶大。自由に出入りできるふれあい広場があるほか、ツキノワグマやマントヒヒなど多くの動物に入園者が特製の餌やり器を通して直接餌を与えることもできる。

 

 同園は全国有数のシロテテナガザルの繁殖施設にもなっている。国内にいるシロテテナガザル90頭のうち12頭が同園で生まれたそうだ。昨春には女優の瀧本美織さんが生後間もないシロテテナガザル「桃太郎」の母親代わりとして子育てに挑戦する様子がテレビで放映された。昨年から今年にかけて新しくレッサーパンダのオスとメスも相次いで仲間入り。2歳のオス「キャラ」は後ろ足で立って一躍人気者になった「風太」の孫に当たるという。

 園長の二本松俊邦さんは入口そばのふれあいコーナーのベンチで「1、2、3……」と数えながら、大きなシロテテナガザルの肩や手足を揉んでいた。これがテナガザルのストレス解消になるそうだ。それまで二本松さんの頭をたたくなど暴れていたが、肩を揉み始めるとすっかりおとなしくなって気持ちよさそう。「桃太郎」のほうはまだオシメをしており、二本松さんが外れたオシメを付け替えるなど世話を焼いていた。

 

 二本松さんから帰りに「いい顔・い・ろ・い・ろ☆2015☆」というタイトルが付いたカレンダーを頂いた。今年の写真の主役はシロテテナガザルの「桃太郎」とレッサーパンダの「キャラ」だが、その下に準主役級として巨漢の「ウリ坊」の背中にしがみ付く「みわ」の写真が載っていた。そこには「まだまだ健在、ウリ坊とみわ」というコメントが添えられていた。

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