【太古の石灰岩が織り成す景観「白崎海岸」】
和歌山が生んだ世界的な博物学の巨星、南方熊楠(1867~1941)。その生涯を紹介する「南方熊楠記念館」(和歌山県白浜町)は京大白浜水族館のすぐそば、番所山の山頂近くにあった。番所山の名は江戸時代に異国船監視のため「白崎遠見番所」が置かれたことにちなむ。記念館に至る急な坂道にはベンケイガ二の写真と「私たち散策中です! 踏まないようお願いします」と書いた立て札が所々に置かれていた。
入り口の手前に昭和天皇のお歌が刻まれた石碑が立っていた。「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」。熊楠は1929年6月1日、生物調査(粘菌)のため田辺湾内に浮かぶ神島(かしま)を訪れた昭和天皇をお迎えし、粘菌などについてご進講した。この歌は1962年、南紀行幸中に神島を遠くから眺められた昭和天皇が33年前を回想し熊楠をしのんで詠まれた。
展示室に入る前にまず「森羅万象の巨人」(語り・故米倉斉加年)と題したビデオを見学。展示室は青少年時代から晩年までを6つのコーナーに分けて紹介する。熊楠は「読むということは写すこと」を信条とした。『和漢三才図会』『本草綱目』『大和本草』……。こうした百科事典や植物学などの主な和漢の書物を15歳頃までに全て筆写したという。細かい文字でびっしり埋め尽くされたノート類。それら写本の数々が熊楠の類まれな集中力と粘り強さを物語る。
展示品の中に昭和天皇へのご進講の際、粘菌の標本を収めて進献した大きな森永ミルクキャラメル箱と同型のものがあった(下の写真㊧参照=記念館紹介パンフレットから)。当時、その箱に天皇も一瞬驚かれたが、「これが真の学者だ」とねぎらわれたという。ご進講の約1週間前、県から熊楠に届いた「進講決定の通牒」もあった。その「記」の末尾に「服装ハ相當御留意相成度」という1項目が加えられていた。ふだん軽装の浴衣姿などで、着るものに無頓着だったのを懸念したのだろう。館内の一角に熊楠がご進講当日着用した黒のフロックコートも展示されていた。
ほかに、在米時代に特注で作った植物標本トランク、ロンドン時代に大英博物館に通って閲覧した文献の抄写「ロンドン抜書」、同博物館で知り合った孫文から贈られた帽子、民俗学者柳田國男と交わした手紙類なども展示されている。柳田との文通は熊楠から160通超、柳田から74通に達したという。ここからも熊楠の筆まめな一面が垣間見える。
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白崎海岸(由良町)にはその名の通り、白一色の世界が広がっていた。海岸に落ち込む白い絶壁、氷山のように海中から顔を出す白い巨岩……。紀伊水道に突き出した岬全体が白い石灰岩で覆われる。この石灰岩、なんと2億5000年以上も昔の古生代ペルム紀のものという。日本の渚百選、日本の夕陽百選にも選ばれている景勝地。岬の先端にはオートキャンプ場やログハウスなども備えた「白崎海洋公園道の駅」があった。
湯浅町の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは10年ほど前の2006年。その湯浅を今回初めて訪ねた。来訪者駐車場脇の案内図を眺めていると、地元の中年男性がやって来て見どころなどを丁寧に教えてくれた。さらにそばの「老人憩いの家」で、展示中の写真パネルや歴史年表をもとに湯浅の歴史などについて説明してくれた。この後、北町通りを中心に散策。「行灯ミュージアム」には春の行灯アート展の入賞作品のほか、紀州名物の手まり、一筆書きの龍の墨絵なども飾られていた。ここでも親切な店主に巡り会えた。今度は町全体が温かい灯りに包まれる行灯アート展の時期に合わせて再訪したいものだ。