【29日開催の「宿場まつり」は今年50回目の節目】
草津宿(滋賀県草津市)は東海道五十三次の江戸から数えて52番目の宿場町。しかも中山道の合流地点とあって、江戸時代には本陣・脇本陣各2軒をはじめ多くの旅籠が軒を連ねてにぎわった。草津宿本陣は往時の面影を残す東海道筋で唯一の本陣といわれ、国の史跡に指定されている。4月29日には「第50回草津宿場まつり」が開かれ、街道筋を中心に時代行列など多彩なイベントが繰り広げられる。

JR草津駅側から草津川跡地公園の下のトンネルをくぐると、すぐ左手に燈籠を載せた追分道標が立つ。東海道と中山道の分岐点を示すもので、約200年前の1816年(文化13年)に建立された。街道筋を直進した所に鎮座する立木神社の境内には、その前身とみられる石造道標がある。こちらの建立時期は1680年(延宝8年)で、県内に現存する道標としても最も古いとのこと。2つとも市文化財に指定されている。

本陣の利用は大名や旗本、勅使、公家などに限られ、参勤交代などでの宿泊は1年近く前から準備が進められたという。ただ草津宿にあった本陣は2軒とも同じ田中姓だったため、本陣間違いなどのトラブルが結構あったそうだ。現存する本陣は田中七左衛門家のもので、追分道標から程近い所にある。主人は裃を着用して玄関口で主客を出迎えた。その玄関広間の正面には宿泊する大名などの名前を大書して掲げた当時の宿札(関札)がずらりと並ぶ。本陣内で最も格式が高く主客が使った部屋は「上段の間」と呼ばれ、長い畳廊下の一番奥に位置する。

本陣には元禄年間から約180年分の大福帳(宿帳)が残されている。その中には1699年(元禄12年)7月に浅野内匠頭と吉良上野介が9日違いで宿泊したことを示すものもあった。江戸城内での刃傷事件の2年前に当たる。宿泊者の中には後に15代将軍になる徳川慶喜や新撰組副長の土方歳三なども。竈(かまど)が並ぶ台所では皇女和宮が1861年(文久元年)に本陣で取った昼食の献立が再現されていた。

街道筋の建物では重厚な造りの太田酒造道潅蔵なども目を引いた。太田家は江戸城を築城した太田道潅を祖とするという。その近くには街道や宿場町の歴史を紹介する草津宿街道交流館もある。ただ街道筋では高層のマンションが目立ち、今も新しく14階建てマンションの建設が進む。このまま進むと、かつて栄えた宿場町という面影はいずれ本陣や道標、そして宿場まつりなどだけになるかもしれない。その様子は同じ宿場町でも妻籠宿(長野県)などのように「(家や土地を)売らない・貸さない・壊さない」を3原則に江戸時代の町並み保存に取り組む宿場町とはまさに好対照だ。
それはそれぞれの立地によるのかもしれない。草津は大津や京都に近く交通の便がいいこともあって住宅需要が旺盛。一方、妻籠宿や奈良井宿、海野宿、関宿などは観光資源として町並み保存の方向を選択した。これらの宿場町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。長い歴史を誇る同じ宿場町だが、それぞれの往き方をどう評価すべきかという判断は実に難しい。草津宿では今年、宿場まつり50回目を記念し、時代行列で宝塚歌劇団のOG8人が篤姫や和宮など主要な役柄を務めるそうだ。前夜祭では宿場まつりサミット、草津能の夕べなども予定されている。