く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈たかとり城まつり〉 旧城下町の土佐街道で時代行列

2024年11月24日 | 祭り

【火縄銃実演、太神楽、南京玉すだれなども】

 日本三大山城の一つ高取城の旧城下町、奈良県高取町で23日「たかとり城まつり」が開かれた。今年で36回目。呼び物の時代行列をはじめ火縄銃や殺陣(たて)の実演、太神楽、よさこい踊りなどもあり、石畳の土佐街道やイベント会場の高取児童公園は多くの見物客でにぎわった。

 時代行列は午後1時に出発、1時間ほどかけて児童公園まで練り歩いた。先導は和太鼓グループ「鼓城」。これに高取国際高校の生徒による「旗行列」が続いた。その後ろには勇ましい「高取甲冑隊」と「子ども甲冑隊」。

 続いて高取町自治会と女子高校生が扮した「姫と家老」。橿原青年会議所の「大名駕籠」には可愛らしい女の子がちょこんと乗っていた。

 「奴行列」で息の合った掛け声と所作を披露したのは土佐時代行列保存会のメンバー。その後には高取町福祉協議会の女性陣による「忍者くノ一」、「紀州九度山手作り甲冑真田隊」が続いた。

 奈良県立万葉文化館の「万葉びと」の後ろには再び鎧兜姿の「甲援隊」。舞を披露し、「エイ、エイ、オー!」と勝ちどきを上げた。

 行列はなおも続く。南都銀行の行員による「江戸両替商」、「大阪城鉄砲隊」、少年野球チーム「高取ホークス」。

 そしてトリを務めたのは昨年同様、神戸に本拠を置く「日本南京玉すだれ協会」の女性陣だった。

 時代行列に先駆け、児童公園では午前10時から和太鼓を皮切りに多彩な出し物が繰り広げられた。太神楽の豊来家幸輝さんは城まつり初登場。土瓶を口にくわえた棒で自在に操ったり、木製のクワに水を入れたコップを乗せ上下にぐるぐる回したり。巧みな曲芸に、あちこちから「すごい!」という声が飛び交っていた。火縄銃や殺陣の実演、よさこい踊りなどもあった。

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〈平城宮いざない館〉 秋期特別展「町なかのお役所ー大学寮と鋳銭司」

2024年11月15日 | 考古・歴史

【大学寮の建物配置と寮内のイメージを復元】

 奈良時代の主要な役所は中枢部の平城宮内に配置された。ただ、その外側の町なかに置かれたものもあった。今回の特別展ではそのうち役人の養成機関だった「大学寮」と和同開珎などの貨幣を鋳造した「鋳銭司(じゅせんし)」を取り上げている。11月24日まで。

 大学寮があったのはこれまでの発掘調査や平安京での位置から、平城京左京三条一坊辺り。「コ」の字型の掘立柱建物群の跡が見つかり、「大」「飯」「厨」などと書かれた墨書土器を含む須恵器なども大量に出土した。

 大学寮で行われた教育は役人が身に付けるべき儒教や法律、計算能力など。「釈奠(せきてん)」という孔子を祀る重要な祭儀も営まれた。会場に入ってすぐ右側に、机を配置した教室の復元イメージが展示されていた。机上には筆⋅硯とともに「論語」などの書物が並ぶ。

 故実叢書『大内裏図考証』の中にある平安京の「大学寮図」によると、寮内には7区画に本寮や廟堂、明経道院などの建物があった。西側は空閑地になっていた。奈良時代の平城京での建物配置もほぼ同じだったと推定される。

 下の写真はその推定復元模型。奈良文化財研究所が朱雀大路に隣接する西側の空閑地を発掘したところ、724年に即位した聖武天皇の大嘗祭に関するとみられる大量の荷札木簡が出土した。それらの木簡類はいま平城宮跡資料館で展示中。

【和同開珎の「現在知られる唯一の母銭」展示中】

 奈良時代に鋳造された貨幣は和同開珎、萬年通宝、神功開宝の3種類。このうち和同と神功の2種類は平安京の町なかでも鋳造されていた。左京三条四坊の和同開珎鋳造遺跡からは焼土の詰まった土壙31基が見つかり、るつぼ⋅ふいご羽口、銅滓なども出土。左京六条一坊の井戸からは神功開宝の鋳型などが見つかっている。

 展示物の中で注目を集めるのが和同開珎の「現在知られる唯一の母銭(ぼせん)」。長屋王の屋敷があった場所の井戸から出土した。母銭は銭貨の鋳型を作るためのもの。通用銭よりやや大きく、文字を際立たせるため字画に沿ってケズリを入れ、型抜きしやすいように方孔や周囲の縁が丸く仕上げられている。

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〈薬師寺〉 中心伽藍を囲む回廊の西北隅を発掘

2024年11月11日 | 考古・歴史

【鐘楼の規模も確定! 現地見学会開催】

 薬師寺(奈良市西ノ京)で9日、9月から発掘調査中の回廊西北隅と鐘楼の現地見学会が開かれた。回廊は金堂や東西両塔など主要堂塔を囲む。今回の調査で回廊全体の規模と構造が明らかになり、鐘楼も東辺と南辺を検出し、基壇に階段を備えていたことも分かった。

 回廊の発掘調査は1968年以来これまでに10回行われてきた。その結果、梁行1間の「単廊」として造営が始まったものの、途中から中央に壁を持つ梁行2間の「複廊」に計画が変更されたことが明らかに。調査を踏まえ回廊のほとんどがこれまでに復元されてきた。(発掘調査場所は講堂西側の左隅)

 ただ講堂の西側に位置する回廊の西北隅の発掘は未調査として残っていた。今回の調査面積は468㎡。現場には回廊の柱が立っていた礎石部分を結んだ赤いテープ3本と青いテープ2本か張られていた。赤テープは複廊、青テープは単廊の場所を示す。

 テープは講堂の西側に復元された回廊の延長線上に西に向けて張られ、その後「L 」字に直角に折れ曲がって南へ伸びていた。

 複廊の礎石はすべて抜き取られていたが、新たに14基の礎石据え付け穴や抜き取り穴が確認できた。据え付け穴は1辺約1.4mの方形。複廊は桁行約4.1m⋅梁行約3.0mで、中央の棟通りに壁を備えた瓦葺き。高さ約36㎝の基壇(幅約9.4m)を持つことが分かった。その外側からは玉石を敷いた雨落ち穴も見つかった。

 今回の調査で回廊全体の規模は西面約115m、東面約113m、南面約123m、北面約124mと判明。また東面回廊の柱間が24間なのに対し、西面回廊は25間とみられ東西非対称だった可能性が高まった。『薬師寺縁起』にも「東面廿四間。西面廿五間」と記載されていた。

 鐘楼は東辺と南辺の発掘により、基壇の規模がこれまでの推定通り東西約15.7m、南北約18.8mだったことが明らかになった。東面の基壇の中央に幅約4.1mの階段があった痕跡も見つかった。

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〈ビッグ幡in東大寺〉 特別コンサート「栃尾克樹×辻ゆり子」

2024年11月10日 | 音楽

【サックスとピアノでクラシックから映画音楽まで】

 東大寺総合文化センターの金鐘ホールで9日「ビッグ幡in東大寺特別コンサート」が開かれた。出演はバリトンサクソフォーン奏者として活躍する栃尾克樹さんと奈良県出身のピアニスト辻ゆり子さん。これまでも共演を重ねてきたとあって、アンコールを含め11曲で息の合った演奏を披露した。

 このコンサートは9月から県内全域で展開中の「奈良県みんなでたのしむ大芸術祭(みん芸)」の一環。東大寺大仏殿前には全国の障がいのある人から「花鳥風月」をテーマに公募した絵画作品を基に製作した“ビッグ幡”が翻っていた(幡は寺院の重要な法要などの際に掲揚される旗のこと)。

 コンサートはクライスラーの「シンコペーション」から始まった。次いでシューマン「アダージョとアレグロ」、メンデルスゾーン=リスト「歌の翼に」。サクソフォーンの深みのある音色と迫力のある低音が会場に響き渡った。続くモンティの「チャルダーシュ」では目にも止まらない指使いで超絶技巧を見せてくれた。(下の建物は金鐘ホールがある東大寺総合文化センター)

 この後、チャップリンの主演映画「ライムライト」の主題歌「エターナリー」を挟んでサン=サーンス「白鳥」、ラフマニノフ「チェロソナタ第3楽章」など。最終10曲目は再びチャップリンの映画「モダン⋅タイムス」より「スマイル」だった。アンコール曲はブラームスの「甲斐なきセレナーデ」。演奏前、栃尾さんがその曲目を解説してくれた。あのブラームスにこんなコミカルな歌曲があったとは。

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〈大和文華館〉 特別展「呉春ー画を究め、芸に遊ぶ」

2024年11月07日 | 美術

【襖絵など40点余、四条派の祖の画業を辿る】

 大和文華館(奈良市学園南)で特別展「呉春ー画を究め、芸に遊ぶ」が開かれている。江戸中期に活躍した絵師呉春(1752-1811)は四条派の祖として近代の京都画壇にも大きな影響を与えた。その画業を代表作『柳鷺群禽図屏風』や『白梅図屏風』など大作を交えながら振り返る。11月24日まで。

 呉春は京都で生まれ、20代に与謝蕪村に絵画と俳諧を学んだ。30歳のとき呉服里(くれはのさと、大阪⋅池田)に移り住んだのを機に呉春に改称。その後、再び京都に戻って円山応挙らと親交を結んだ。

 『柳鷺群禽図屏風』(京都国立博物館蔵)は六曲一双の重要文化財で、前期と後期で右隻と左隻を入れ替えて展示。右隻には枯れ木に止まって群れ騒ぐ5羽のカラス(烏⋅鴉)が描かれている。カラスは師蕪村を象徴するモチーフの一つ。蕪村から譲り受けた「三菓堂図画印」も捺されている。その作品の隣には蕪村の『鳶⋅鴉図』(二幅対)のうち『鴉図』が展示されていた。

 呉春の六曲一双『白梅図屏風』(逸翁美術館蔵)は深みのある青地に白い梅の花が浮かび上がる。輪郭線を用いない“没骨描法”に「応挙に学んだ成果が発揮されている」という。『雪梅図壁貼付』(草堂寺蔵、障壁画10面のうちの1面)は応挙自身の作品で、梅の小枝に雪が積もった画面はまさに静寂が支配する。いずれも重文指定。

 呉春筆『蔬菜図巻』(泉屋美術館蔵)は薺(なずな)から慈姑(くわい)まで四季折々の野菜を季節を追って没骨で描いた墨画淡彩。図巻の横幅は8mを超える。その隣には『芋畑図襖』4面(京都国立博物館蔵)が前期中(11月4日まで)展示されていた。

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〈関宿街道まつり〉 東から西へ「宿場大行列」

2024年11月04日 | 祭り

【37回目、山車が“舞台回し”を披露】

 三重県亀山市の旧東海道関宿街道一帯で11月3日「東海道関宿街道まつり」が開かれた。今年で37回目。「宿場大行列」をはじめ盛り沢山のイベントが用意され、好天に恵まれたこともあって多くの観光客でにぎわった。

 行列は午前10時すぎ「三味線道中」を先頭に関宿の東側の入り口「東の追分」を出発、一休さんに因んで小学生が小坊主姿に扮した「子ども時代行列」、公演が近い亀山ミュージカルの「まほろばの夢~新ヤマトタケル」、「関ふれあい音頭」の手踊りと続いた。

 その後に続くのは地元で歌い継がれてきた「正調鈴鹿馬子唄」、そして「時代行列」。馬子唄の馬は遠目からは実物と思わせる出来映え。「本物?」と聞く小さな子どもに「そう。近づくとかまれるよ」と親が答え、笑いが広がる一幕もあった。

 行列のトリを務めたのは「木崎の山車(やま)」。関にはこの木崎も含め現在4台の山車があるが、江戸後期の文化年間(1801~19年)にはその4倍の16台もあったという。祭りのときにはそれらの山車が狭い街道にひしめきあい、「これ以上は無理」ということから「関の山」という言葉が生まれたそうだ。

 行列の終点は「西の追分」側にある関地蔵院。巡行を終えた山車はそのそばで”舞台回し“を披露した。山車の上部が高速で回転するという見せ場だ。元は狭い街道で追い抜けないため、上部を回して方向転換できる構造になったのが始まりという。半時計回りに20回ほど回っただろうか。静止すると観客から大きな拍手が沸き起こった。

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〈聖武天皇即位1300年〉 “ 大嘗祭木簡” 奈良の2館で展示

2024年11月02日 | 考古・歴史

【 奈良国立博物館「大嘗贄」や「神亀元年」などの木簡】

 今年は奈良時代に聖武天皇が即位してちょうど1300年。その節目の今年2月、偶然にも即位後の重要な儀式大嘗祭に関連した木簡が大量に出土した。奈良国立博物館は開催中の正倉院展に合わせ、なら仏像館(旧本館)で特別陳列「聖武天皇の大嘗祭木簡」 を開催、「大嘗贄」や「大嘗分」「神亀元年」などと書かれた代表的な木簡8点を展示している。

 木簡群が見つかったのは平城宮朱雀門の東南にあった一片約3mの土坑。約2600点(うち 削り屑 2250点) がまとまって出てきた。

 展示中の木簡は大嘗祭のため各地から送られてきた物品の荷札や 管理用の付け札。

 下の木簡に書かれているのは「佐波郡大嘗贄押年魚千百十隻」。贄(にえ)は神や天皇に捧げる食物で、荷が塩漬けの鮎1100匹であることを表す。佐波郡は周防国(山口県東部)にあった古代の郡域とみられる。

 下の写真は奈良文化財研究所の図録から。中央の木簡には「□郡村社郷高負里大嘗分」と記され、左側の木簡には表と裏に「五連和五百嶋」「神亀元年八月廿二日」と書かれている。神亀元年は聖武天皇が即位した年に当たる。特別陳列は正倉院展の会期と同じ11月11日まで。

【平城宮跡資料館には木簡のほか土器や軒瓦なども】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館では秋期特別展「聖武天皇が即位したとき。~聖武天皇即位一三〇〇年記念」を開催中。大嘗祭木簡のほか土器や軒瓦、灯火器なども展示し、即位前の首皇子の時代から東大寺の大仏建立までを辿っている。

 展示1番目は皇太子と記された削り屑。奈良時代前半のもので、首皇子とみられる皇太子に仕える舎人などの勤務管理に関わる木簡の一部と推測される。

 大嘗祭関連の荷札木簡でこれまでに洗浄が終わったのは約180点。その3分の2に当たる約120点が備中国(現在の岡山県西部)から送られてきた可能性が高い。なぜ特定の国に集中したのだろうか。奈文研では「今後解明すべき課題の一つ」としている。

 会場には大嘗祭木簡と一緒に出土した土器類も展示されている。

 聖武天皇は即位後、御在所を東院から内裏に遷した。軒瓦と丸瓦⋅平瓦の出土量や比率から、内裏の建物は総瓦葺きではなく、屋根最上部のみに瓦を葺く“甍棟(いらかむね)”だったと推測されている。

 平城宮に程近く長屋王たちの邸宅かあった二条大路の濠状土坑からは灯火器などのほか、疫病よけの呪符木簡も出土した。735~737年(天平7~9年)、疫病(天然痘?)が大流行し藤原四兄弟も相次いで没した。最大の後ろ楯を失った聖武天皇は仏教への傾倒を強めていく。特別展は12月8日まで(木簡は1期と2期で展示替え)。

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