【没後27年、『風天 渥美清のうた』に220句収録】
新型コロナ禍による在宅時間を利用し、この3年ほど多くの映画(DVD)を視聴した。その中には『男はつらいよ』シリーズを中心に渥美清出演作60本ほども。この間 、関連本にも目を通した。『お兄ちゃん』(倍賞千恵子著)、『「男はつらいよ」の幸福論』(名越康文著)、『風天 渥美清のうた』(森英介著)……。渥美清が生前「風天」の俳号で多くの俳句を残していたことを知ったのも『風天 渥美清のうた』のおかげだ。8月4日は“風天の寅さん”の命日。没後27年目に当たる。
渥美清が俳句づくりを始めたのは40代半ばごろ。永六輔に連れられてアマチュアの俳人仲間でつくる「話の特集句会」に参加したのが始まりという。その後も「アエラ句会」「たまご句会」「トリの会」と渡り歩きながら、晩年まで20年余にわたって句作を続けた。「えっ、あの寅さんが俳句!」と興味を抱いたのが森英介氏。ゆかりの人々への丹念な取材を通じて寅さんの作品220句を掘り起こし、著書『風天 渥美清のうた』に収録した。
寅さんは「どうやら仕事を離れた気の置けない仲間たちとワクワク、ドキドキの言葉遊びの会を楽しんでいたようだ」。森氏は「若いときに片肺を摘出、健康不安を抱えながらも国民的スターに上り詰めた渥美にとって、数少ない魂の解放の場が句会だったのではないか」とも記す。(長野県小諸市「渥美清こもろ寅さん会館」には映画で使われた寅さんグッズ、国民栄誉賞の表彰状などのほか、「渥美清のかくれた芸」として俳句の短冊なども展示されているという)
代表作の一つに「お遍路が一列に行く虹の中」。作ったのは1994年6月で、亡くなる2年ほど前だった。26年間続いた「男はつらいよ」のシリーズ最終作が95年12月公開の48作目。山田洋次監督は寅さんがお遍路に興味を持っていたことから、49作目を作るなら高知を舞台に田中裕子のマドンナ役で「寅次郎花へんろ」という作品を撮るつもりだったそうだ。
風天句の中には小さな生き物を取り上げたものが多い。「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」「蓑虫こともなげにいきてるふう」「ゆうべの台風どこに居たちょうちょ」「ひぐらしは坊さんの生れかわりか」。虫たちへの温かい眼差しが投影されているようだ。「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」という句も。
旅を句材としたものも目立つ。「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」「そば食らう歯のない婆(ひと)や夜の駅」「雲のゆく萩のこぼれて道祖神」。渥美清が放浪の俳人といわれる種田山頭火や尾崎放哉に引かれ、自ら演じたいと願っていたというのは有名な話。
風天句はどれも情景がくっきり目の前に浮かぶ。「好きだからつよくぶつけた雪合戦」「冬めいてションベンの湯気ほっかりと」「ステテコ女物サンダルのひとパチンコよく入る」「納豆を食パンでくう二DK」「ヘアーにあわたててみるひるの銭湯」「がばがばと音おそろしき鯉のぼり」……
森氏は「多彩な句の材料、字足らず、字あまり、独特の発想、巧みな比喩、ユーモア、ペーソス、そして全編に漂う哀愁と孤独感……奔放自在な風天句には、やっぱり寅さん、いや渥美清の顔がくっきり刻まれている」と綴り、最後にこう結んでいる。「渥美清はきわめて孤独の人だが、その孤独をしっかり楽しんでいた粋な人でもあったということである」