変な題になりましたが、前にもこのことについて一度書いたのですが、応神天皇と吉備との関係について少々説明しておきます。
それは「景行天皇」の時代です。この後、景行天皇ー成務天皇ー仲哀天皇—応神天皇と続きます。
そこらあたりの関係をもう少し詳しく書いてみますと、十二代景行天皇の皇子「日本武尊」は蝦夷征伐の途中で早逝されますが、その日本武尊の御子が「仲哀天皇」で、その皇后があの「神功皇后」です。この二人の間にお生まれになるのが「応神天皇」です。なお、「成務天皇」は景行の第一皇子です。
これだけ見てみると「応神天皇」と吉備との関係は何もないように思えるのですが、豈 はからんやです。古事記に登場するのが
“針間伊那毘能大郎女<ハリマノ イナビノ オホイラツメ>”
という女性です。よくこの女性について「針間<ハリマ>」とあるから、きっと「播磨」の女性ではないかといわれているのですが、よく読んでみると、この女性について
「吉備の臣などの祖先である若建吉備津日子の女」
だと記してあります。
なお、蛇足ですが、この「若建吉備津日子」については、過去幾度となく書いたのですが、吉備津神社にお祭りされている吉備津彦命の弟君です。
このように見てきますと、応神天皇の曾祖母が吉備出身の女性だったのです。だから、応神天王が吉備に来るのは、そんなに無関係な土地ではなく、ちょっと親戚の家というか、ひいおばあさんの生まれた所を尋ねるのだという軽い気持ちで来てもよかったとは思うのですがどうでしょうか???
く
それは「景行天皇」の時代です。この後、景行天皇ー成務天皇ー仲哀天皇—応神天皇と続きます。
そこらあたりの関係をもう少し詳しく書いてみますと、十二代景行天皇の皇子「日本武尊」は蝦夷征伐の途中で早逝されますが、その日本武尊の御子が「仲哀天皇」で、その皇后があの「神功皇后」です。この二人の間にお生まれになるのが「応神天皇」です。なお、「成務天皇」は景行の第一皇子です。
これだけ見てみると「応神天皇」と吉備との関係は何もないように思えるのですが、豈 はからんやです。古事記に登場するのが
“針間伊那毘能大郎女<ハリマノ イナビノ オホイラツメ>”
という女性です。よくこの女性について「針間<ハリマ>」とあるから、きっと「播磨」の女性ではないかといわれているのですが、よく読んでみると、この女性について
「吉備の臣などの祖先である若建吉備津日子の女」
だと記してあります。
なお、蛇足ですが、この「若建吉備津日子」については、過去幾度となく書いたのですが、吉備津神社にお祭りされている吉備津彦命の弟君です。
このように見てきますと、応神天皇の曾祖母が吉備出身の女性だったのです。だから、応神天王が吉備に来るのは、そんなに無関係な土地ではなく、ちょっと親戚の家というか、ひいおばあさんの生まれた所を尋ねるのだという軽い気持ちで来てもよかったとは思うのですがどうでしょうか???
く