吉備に到着された応神天皇は
“葦守宮”
に入られます。この「葦守宮」ですが現在、岡山市北区足守にある「足守神社」だといわれていますが、当時、今の岡山平野の大部分は「吉備の穴海」と呼ばれていた海でした、高梁(足守)・旭・吉井川が流れ込んでいた遠浅の海だったのです、その河口付近はいずれにも葦原の大草原が続いていました。特に高梁川や吉井川の河口付近の葦の生えているところは、あたかも大きな森の様相をていてたので、通称、「葦の原」「葦の森」などと呼ばれてた大草原だったのです。その荒れ地の開拓に入植してきたのが例の中国や朝鮮の人たちだったのです。彼らは倭国の人たちがまだ知らない青銅器などの工作機械を使って大規模な土地の造成を行い、豊かな国造りを行ったのだと考えられています。それらの土地が北九州・吉備・摂津・大和・丹波・出雲など日本各地に見ることができたのです。
まだ、日本に統一的な国家形成はなく、それぞれの所でそれぞれの大王(酋長)による勝手にというか自然発生的に生まれた支配体制だった時代の出来事だったのです。
そのような各地の大王によって支配されていた小国家連立状態だった国が、次第に、天皇を中心とした中央集権的な国家「倭国」誕生の過程を指し示す出来事が、この兄媛の物語で語られているのです。そう考えると、このジンムの吉備国遠征は、もっと深く日本歴史の中で語られなくてはならないのではないでしょうか???
なお、この物語もどうしてかわわかりませんが「古事記」には書かれてはいません?????
“葦守宮”
に入られます。この「葦守宮」ですが現在、岡山市北区足守にある「足守神社」だといわれていますが、当時、今の岡山平野の大部分は「吉備の穴海」と呼ばれていた海でした、高梁(足守)・旭・吉井川が流れ込んでいた遠浅の海だったのです、その河口付近はいずれにも葦原の大草原が続いていました。特に高梁川や吉井川の河口付近の葦の生えているところは、あたかも大きな森の様相をていてたので、通称、「葦の原」「葦の森」などと呼ばれてた大草原だったのです。その荒れ地の開拓に入植してきたのが例の中国や朝鮮の人たちだったのです。彼らは倭国の人たちがまだ知らない青銅器などの工作機械を使って大規模な土地の造成を行い、豊かな国造りを行ったのだと考えられています。それらの土地が北九州・吉備・摂津・大和・丹波・出雲など日本各地に見ることができたのです。
まだ、日本に統一的な国家形成はなく、それぞれの所でそれぞれの大王(酋長)による勝手にというか自然発生的に生まれた支配体制だった時代の出来事だったのです。
そのような各地の大王によって支配されていた小国家連立状態だった国が、次第に、天皇を中心とした中央集権的な国家「倭国」誕生の過程を指し示す出来事が、この兄媛の物語で語られているのです。そう考えると、このジンムの吉備国遠征は、もっと深く日本歴史の中で語られなくてはならないのではないでしょうか???
なお、この物語もどうしてかわわかりませんが「古事記」には書かれてはいません?????