平安時代の前期(860年頃)の備中の国は大変乱れていました。そこに国司として赴任したのが藤原保則です。その保則の備中での政治が日本の歴史の上から云っても大変に善政であったと称賛されています(のちには備前の守に)。どのような政治を行ったか詳しく大日本史に書かれていますので、それを・・・
貞観6年(868年)国司となり赴任します。その時は国内は、特に国の北部は
"境内丘墟となりて 単丁あることなし”
「大変荒れ果てて 働き手の姿が見当たらない」でした。そのような所に赴任した保則がした政治は
”施すに寛政を以てし、小過をゆるして大体を存し、徒隷を放散して、綏撫賑恤し、農桑を勧め遊費を禁ず。是に於いて、百姓襁負し、来り附くこと帰るが如し、田園尽く闢け、戸口殷阜、門、夜扁さず、賦税倍入し・・・”
と書かれています。大変難しい漢字が使われ、辞書がなければ分らないような文章ですが・・・
例えば「綏撫賑恤」は<スイブ シンジュツ>と読み、「領民をいたわり、救いの手を差し延べる」で、「百姓襁負<ヒャクセイ キョウフ」は「国民の身を保護する」という意味です。
前の国守とは大変な違いの政治を施します。そして
"古より以来、未だかって此の類あらざりしなり”
「このような政治は見たことがないような」善政が、突如として備中の国に実現できたのです。
貞観6年(868年)国司となり赴任します。その時は国内は、特に国の北部は
"境内丘墟となりて 単丁あることなし”
「大変荒れ果てて 働き手の姿が見当たらない」でした。そのような所に赴任した保則がした政治は
”施すに寛政を以てし、小過をゆるして大体を存し、徒隷を放散して、綏撫賑恤し、農桑を勧め遊費を禁ず。是に於いて、百姓襁負し、来り附くこと帰るが如し、田園尽く闢け、戸口殷阜、門、夜扁さず、賦税倍入し・・・”
と書かれています。大変難しい漢字が使われ、辞書がなければ分らないような文章ですが・・・
例えば「綏撫賑恤」は<スイブ シンジュツ>と読み、「領民をいたわり、救いの手を差し延べる」で、「百姓襁負<ヒャクセイ キョウフ」は「国民の身を保護する」という意味です。
前の国守とは大変な違いの政治を施します。そして
"古より以来、未だかって此の類あらざりしなり”
「このような政治は見たことがないような」善政が、突如として備中の国に実現できたのです。