その簾潔さから「たぶん受け取らないのでは??」と思っていた役人たちの思いに反して保則は快く受け取ります。それには、また、保則の深い思いがあったのです。時は聖武天皇の国分寺建立から百年が過ぎて、藤原良房が関白になった頃です。国家からの援助も底をつき、国分寺の僧侶たちの生活も大変困窮していた時代です。保則の在任中も、その僧侶たちの生活が大変な困窮する時代を迎えていました。その僧侶たちへの配慮を最後の置き土産にしよと保則は考えたのです。
保則は部下に伝えます。
「私の周りには、最近、しきりと妖怪が出回り大いに悩まされている。これから航海する上でも大変不安です。どうか国分寺の僧侶たちに祈祷してもらいたい。それも般若心経をただ一回だけ唱えてくればいい。」
と国分寺の僧侶たちも今までに受けた沢山の保則のご恩に報いることが出来るならと船に乗り来て経をあげます。保則はそのお礼にと国の人たちから当面の食料にと送られた白米200石をすべて祈祷代にと僧侶たちに与えます。そこら辺りのやり取りは何も書かれてはいませんが、「いりません。」「いや是非持って帰りなさい。」などの言い争いはあったと想像されます。
このようにして国司の任を終えても、外の国司が誰もがしているような財産的なものは何も持たずに身一つで京へ帰ります。
平安の世の稀有な人物として徳川光圀は「大日本史」ので取り上げられているのですが、「吉備津神社記」には、そこまでは詳しくは書かれてはいません。
ちょっと長々しくなりましたが「保則」のお話は終えます。
保則は部下に伝えます。
「私の周りには、最近、しきりと妖怪が出回り大いに悩まされている。これから航海する上でも大変不安です。どうか国分寺の僧侶たちに祈祷してもらいたい。それも般若心経をただ一回だけ唱えてくればいい。」
と国分寺の僧侶たちも今までに受けた沢山の保則のご恩に報いることが出来るならと船に乗り来て経をあげます。保則はそのお礼にと国の人たちから当面の食料にと送られた白米200石をすべて祈祷代にと僧侶たちに与えます。そこら辺りのやり取りは何も書かれてはいませんが、「いりません。」「いや是非持って帰りなさい。」などの言い争いはあったと想像されます。
このようにして国司の任を終えても、外の国司が誰もがしているような財産的なものは何も持たずに身一つで京へ帰ります。
平安の世の稀有な人物として徳川光圀は「大日本史」ので取り上げられているのですが、「吉備津神社記」には、そこまでは詳しくは書かれてはいません。
ちょっと長々しくなりましたが「保則」のお話は終えます。