ぼつぼつ「吉備津神社記」も終わりです。この「吉備津神社記」には沢山の有名人が参詣されたと書かれております。あの「保則」も「政長」もそうですがその他に沢山の有名人が書き込まれています。
今川了俊の「道ゆきぶり」から。
「から川(岡山市一宮)とかいうところにとどまりて、つとめてきびつ宮の御まへよりすぐる、みちのほとりちかき鳥居ののもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。吉備の中山とは、備中と此備前との二つの社の中なれはなるべし。細谷川はおとにききしより、猶心ぼそげなり。うちつづきたるはがきのさまは、げにぞかうかうしきや、この御社ともに上矢一づつたてまつりぬ。」
今川了俊という人は室町時代に活躍した人です。九州探題として赴任する時の旅行記(応永十二年)を書き綴った手記です。その途中吉備津神社に参詣した時の様子もこのように書かれています。総てが焼けた吉備津神社はその時ようやく再建して、仮遷宮を終えたばかりの頃だと思われます
今川了俊の「道ゆきぶり」から。
「から川(岡山市一宮)とかいうところにとどまりて、つとめてきびつ宮の御まへよりすぐる、みちのほとりちかき鳥居ののもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。吉備の中山とは、備中と此備前との二つの社の中なれはなるべし。細谷川はおとにききしより、猶心ぼそげなり。うちつづきたるはがきのさまは、げにぞかうかうしきや、この御社ともに上矢一づつたてまつりぬ。」
今川了俊という人は室町時代に活躍した人です。九州探題として赴任する時の旅行記(応永十二年)を書き綴った手記です。その途中吉備津神社に参詣した時の様子もこのように書かれています。総てが焼けた吉備津神社はその時ようやく再建して、仮遷宮を終えたばかりの頃だと思われます