今川了俊の「道ゆきのぶり」に
"みちのほとりちかき鳥居のもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。”
と書かれています。神官がどうして鳥居の傍まで出てきて、旅人に「旅の幣」を売っていたのでしょうか。不思議ですね???
時は応安四年です。1371年のことです。この時の吉備津神社はと言いますと、先に説明しましたが、社務代松田氏らによって「吉備津神社」は悉く灰燼に帰してしまいます。その為に、神官たちは生きるためにも何らかの経済的な対策を取らざるを得なっかたのでしょう、「旅の幣」を売っていたのでしょう。神社そのものは焼けてありません。仕方なく山陽道まで出向いて仮の小屋でも立て、そこで「旅の幣」を売って細々と生計の足しにでもしていたのでしょうか??
それまでは、尊氏の一子「直冬」が南朝方の鎮西探題として九州方面を支配下に置いていたのですが、応安4年ごろになって義満によって北朝の今川了俊が
「九州探題」
に任命された経緯がありますが、詳しくは亀田俊和の「観応の騒乱」を・・・・・なお。この時の今川了俊は如何なる思いで吉備津神社の旅の幣を買ったのでしょうかね???何も書き残されてはいませんが、その思いには如何なるものがあったか想像すると思いを絶するものがありますよね。
その辺り現在です。室町期といかなる変化があったのでしょうかね。松並木はあったのか?????
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"みちのほとりちかき鳥居のもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。”
と書かれています。神官がどうして鳥居の傍まで出てきて、旅人に「旅の幣」を売っていたのでしょうか。不思議ですね???
時は応安四年です。1371年のことです。この時の吉備津神社はと言いますと、先に説明しましたが、社務代松田氏らによって「吉備津神社」は悉く灰燼に帰してしまいます。その為に、神官たちは生きるためにも何らかの経済的な対策を取らざるを得なっかたのでしょう、「旅の幣」を売っていたのでしょう。神社そのものは焼けてありません。仕方なく山陽道まで出向いて仮の小屋でも立て、そこで「旅の幣」を売って細々と生計の足しにでもしていたのでしょうか??
それまでは、尊氏の一子「直冬」が南朝方の鎮西探題として九州方面を支配下に置いていたのですが、応安4年ごろになって義満によって北朝の今川了俊が
「九州探題」
に任命された経緯がありますが、詳しくは亀田俊和の「観応の騒乱」を・・・・・なお。この時の今川了俊は如何なる思いで吉備津神社の旅の幣を買ったのでしょうかね???何も書き残されてはいませんが、その思いには如何なるものがあったか想像すると思いを絶するものがありますよね。
その辺り現在です。室町期といかなる変化があったのでしょうかね。松並木はあったのか?????
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