また自慢本ですが、私の持っている本「新井白石著;藩翰譜」に「木下藩(足守藩)」の成り立ちの由来について簡単に説明が書かれています。
しかし、明治27年に出版された「三百諸侯」には、「木下長嘯子」の項を特別に設けて、従来からの定説???となっている石田軍の攻撃から自らが守る伏見城を捨てて逃げたとする「敵前逃亡説」と全く違う話を載せておりますので紹介しておきます。(勝俊が長嘯子の本名です。)
慶長5年(1600年)の秋は朝夕の風も荒く吹くかと覚えたりり。若狭少将勝俊は伏見の城の本丸に空うち仰ぎて長く嘯き、
「あゝ、天哉(てんなるかな)。豊臣家も二代を以て断絶(たゆ)るかな。やとひ秀頼が生長せしとて、其時には、はや天下の覇権は家康の手に落ちなむ。又今度の戦争(いくさ)に、石田等が勝ちしとて秀頼の為にならず、天下は誰が手にか落つるならむ。豊臣の血統(ちすじ)はらざれどかりにも秀頼とは叔姓(おじおひ)の名あり、家康を助けて戦うべきか、それも情として忍びざることなり。さりとて、奉行等が後舞(しりまひ)をして徳川と戦はむも余りに愚なり。実(げ)に捨つ可きは弓矢なり。」
と愁然として暮れゆく方をながめたり。
と書かれています。少々長くなりますので、後半は明日にでも・・・・・
乞う次回を!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
しかし、明治27年に出版された「三百諸侯」には、「木下長嘯子」の項を特別に設けて、従来からの定説???となっている石田軍の攻撃から自らが守る伏見城を捨てて逃げたとする「敵前逃亡説」と全く違う話を載せておりますので紹介しておきます。(勝俊が長嘯子の本名です。)
慶長5年(1600年)の秋は朝夕の風も荒く吹くかと覚えたりり。若狭少将勝俊は伏見の城の本丸に空うち仰ぎて長く嘯き、
「あゝ、天哉(てんなるかな)。豊臣家も二代を以て断絶(たゆ)るかな。やとひ秀頼が生長せしとて、其時には、はや天下の覇権は家康の手に落ちなむ。又今度の戦争(いくさ)に、石田等が勝ちしとて秀頼の為にならず、天下は誰が手にか落つるならむ。豊臣の血統(ちすじ)はらざれどかりにも秀頼とは叔姓(おじおひ)の名あり、家康を助けて戦うべきか、それも情として忍びざることなり。さりとて、奉行等が後舞(しりまひ)をして徳川と戦はむも余りに愚なり。実(げ)に捨つ可きは弓矢なり。」
と愁然として暮れゆく方をながめたり。
と書かれています。少々長くなりますので、後半は明日にでも・・・・・
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