平安の初期(860年頃)の話です。保則の廉潔さを物語るもう一つのエピソードが光圀の大日本史に書かれております。それを紹介して保則の話の最後とします。
それは保則が備前国守の任を終えた貞観17年の、京に帰る時の送別の時です
"京に帰らんとするや、両備の民、悲号して路を遮り、戴伯のもの、各々酒肴を捧げて、道左に拝伏す。”
とあります。両備ですから備前備中の人達は泣きながら、中には酒肴を携えてたりして、道端人が溢れるように並び、保則を見送ります。折角、このように別れを惜しんでくれる人々の真心を感じた保則はその出立を数日伸ばします。それでも人々は相次いで別れを惜しんで保則を見送るのです。あまりにも大勢の国民が引きも切らず別れを惜しんで見送りに集まってくれます。
でも、何時までもという訳にはいきません。竊かに小舟に乗り帰ります。その為、保則はほとんど何も持ってはいなかったのです。それを察した備前の役人たちは相談して保則が宿泊していた備前の方上津(現在の片上の港)に
「二百石の白米」
を持参して差し出します。保則は、それを堅く固辞するだろうと予想していた役人は、大変驚くやら嬉しがるやらしたのです。
ここまでなら誰でも出来ることですが、その後の保則は行ったことには本当に
「この人の心はいかに」
と、その心の簾潔さは如何なるものかと頻りに感心させられます。
それは保則が備前国守の任を終えた貞観17年の、京に帰る時の送別の時です
"京に帰らんとするや、両備の民、悲号して路を遮り、戴伯のもの、各々酒肴を捧げて、道左に拝伏す。”
とあります。両備ですから備前備中の人達は泣きながら、中には酒肴を携えてたりして、道端人が溢れるように並び、保則を見送ります。折角、このように別れを惜しんでくれる人々の真心を感じた保則はその出立を数日伸ばします。それでも人々は相次いで別れを惜しんで保則を見送るのです。あまりにも大勢の国民が引きも切らず別れを惜しんで見送りに集まってくれます。
でも、何時までもという訳にはいきません。竊かに小舟に乗り帰ります。その為、保則はほとんど何も持ってはいなかったのです。それを察した備前の役人たちは相談して保則が宿泊していた備前の方上津(現在の片上の港)に
「二百石の白米」
を持参して差し出します。保則は、それを堅く固辞するだろうと予想していた役人は、大変驚くやら嬉しがるやらしたのです。
ここまでなら誰でも出来ることですが、その後の保則は行ったことには本当に
「この人の心はいかに」
と、その心の簾潔さは如何なるものかと頻りに感心させられます。