私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

黄泉の世界に灯された“一火”は???

2016-12-17 11:06:11 | 日記

 「ちょっとお待ちください。“莫視我<アヲナミタマヒソ>”(私を見ないでください)」と言って、殿内<トヌチ>(殿騰戸の内側)にはいられます。いくら待ってもなかなかイザナミは出て来ません。

           「なにゅうしょんなら はようでてけえよ」(岡山弁です。意味がお分かりですか???)

 と、待ち遠しくなって、美豆良の御櫛に火を灯すのです。そこで、また、ちょっと、その御櫛について説明しておきます。現在、我々が日常に使っているような櫛ですと、その歯は、大変短く、例え男柱だとしても火熾しには使えません。では、どうして「古事記のイザナギ」は、この櫛で火を熾すことができたのでしょうか???

 そこで、再び、江馬務の「日本風俗史」からですが、彼は、当時の人が使っていた櫛について面白い報告をしております。当時の人が使っていただろう絵を描いて説明しております。当時の人が残した埴輪や滑石の櫛からだそうです。

               

 これだと火熾しに使えそうですね。でも、こんな櫛で火を熾したばっかりに、これから起こる悲劇が始まるのです。そうです。黄泉の外にあったイザナミの身に

    "宇士<ウジ>多加礼”

 そうですウジ虫が“タカレ”です。そんなイザナミの今の真の醜い姿を見てしまったのです。・・・・・・・・なかなか上代の人達の着ていた服そうまでに至らないのですが、まあぼつぼつと、そこまで到達しますのでご勘弁の程を!!!!!


神殿のご灯明は二ツが慣例になったわけ

2016-12-16 08:55:56 | 日記

 「二火・三火」でなくイザナギが、黄泉の入り口“殿騰戸<トノド>”で、点した火が何故「一火」だったかと言うことについて、宣長は

 “ただ火とても有りぬべきを、一ツ火としも云るは、古ヘ燭<トモシビ>は二ツ三ツも、又いくつも燃す物なりけむ故に、ただ一ツともすをば、分て然云ならへるにや・・・・・」

 と、説明しています。
 当時の発火法を考えると、一つでも、マッチは有りませんから、物に、特に、竹に火が点くまでには相当な時間が必要だと思います。

                             

 キリやウツギなどごく柔らかい木ですと、簡単に発火します(一分もあれは十分です)が、竹を使って火を付けた経験はないのですが、これだと相当な時間と労力がいると思います。でも、一度点火されますと、真っ暗な世界です。一ツのわずかな灯があれば、そこら辺りの様子は十分に伺い知る事が出来るはずです。イザナミの身に湧いた宇士<ウジ>ぐらいは見えます。

 なお、このイザナギの”燭一火”の故事は、後の世になって、一火は忌事とされ、神に奉る火はは、何時も「二ツの灯明」が慣例になり、理由はよく分からないのですが石見国から日本各地に広まったとも云われております(古事記伝より)。それが何時の頃からは分かりませんが、仏事にも広がり、仏壇に供える「おろうそく」は、一本ではなく、一対2本が普通になたのではないかと思われます。


“燭一火<ヒトツヒトモシテ>”

2016-12-15 09:05:12 | 日記

 “燭一火”。余りの暗い世界だったので、声だけでなく、愛しい妻の姿をもこの目で確かめようとして、イザナギは自分の美豆良に挿してある櫛の一番端にある歯(湯津々間櫛の男柱)を抜いて火を灯したのです。

 さて、この時、イザナギが火をどのようにして点けたのでしょうか???イザナギがいた時代と思われる縄文時代のの発火法について少しばかり、例の通り説明しておきます。

           

 この写真に見られるような「弓引き点火法」によってイザナギも黄泉の入り口で火を熾したのだと思います。この時、左手には火熾しのための竹串を抑えつけておく道具が必要なのです。貝塚から時々見つかるのですが、エドワーズ・モースが明治一〇年に来日し、日本の考古学が始まりますが、最初の内は
  「これは、果たして、縄文人は何に使ったのかな????」
 と、その使用法が分からなくて、大方のものは捨てられてしまったのだそうです。でも、ある時、アイヌ研究のためにカムッチャカを訪れた鳥居竜蔵が、そこに住んでいたコリヤーク族の人達の使っていた道具を見て、その使用方法を発見します。

 その左手に握っていた物と、その研究成果が載っている本です。写真でどうぞ

                   

  一番左端にある石は大きさは約5cmぐらいで、その中央付近にはくぼみがあり、ここに火熾しのための棒(先がやや細くなった所)の先をあてがい、右端にある図の弓で棒を廻しながら火と起こします。大体、2分もあれば十分火が熾せます。
 鳥居竜蔵によると、この石をコリヤーク族の人は

                  “Ceneyien<セネイエン>”

 と呼んでいたのだそうです。なお、此処にある石器は私のコレクションです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黄泉に入る事が出来るのは死者の魂だけです。

2016-12-14 08:44:15 | 日記

黄泉の国について、少々今日も、又とんでもない方向になりますが、お読み頂くと幸いです。

 本居宣長の「古事記伝」を読むと、イザナギが死んだイザナミに会いに黄泉国に行きます。この黄泉国について詳しく宣長流に解説をしておりますので書いてみます。

    「黄泉国」は

              “余美能久爾<ヨミノクニ>

 と訓べし” とあり、

             “死し人の往て居る国なり”

 と、また、此の国は

             “燭一火<ヒトツビトモシテ>入見之時<イリミマストキ>”

 とあるように、真っ暗い所だから「一火を灯してそこら辺りを見る」と周りの様子がよく分かったのです。夜見ノ国です。明りはないのです。夜を支配する月読命<ツキヨミノミコト>の「読」も、また、「黄泉」から出ているのだそうです。また、宣長は
 「此の黄泉の国へは身ながら、総て往くのか、それとも、魂だけが往くのか」
 と、よく尋ねる人があるのですが、
 「この身はなきがらとなりてこの世に留まり、夜見ノ国へは魂だけが往くのだ。」
 と書いております。
 でも、イザナギが見たイザナミの身に“宇士多加礼<ウジタカレ>”とありますから、イザナミは黄泉の国の入り口「殿騰戸<トノド>」の外まで出迎えに来たのです。と言うことは、イザナミの身は黄泉国の外にあり、魂だけが内にいて、それが、再び、合体して、黄泉の国より出てきたのです。その黄泉国の外にあった身に「うじ」が付いておったのイザナミは知っていて、

            “莫視吾<アヲナ ミタマイソ>“(私を決して見ないでください)

といたのです。ということは、二人が再開したそこは黄泉の区域外です。何せ、イザナギは死者ではないのですから、黄泉の国には入れない筈です。

 なお、昨日も書いたのですが、「殿騰戸<トノド>」について、戸は、元来、開くもので騰<ア>げるものではありませんが、騰げると言うのは、寝殿造りの蔀戸(しとみど)のような上下に動くような戸だったのかもしれませんね???

 


上古の服装について

2016-12-13 09:43:13 | 日記

 上古の人達の容儀について見てきたのですが、寄り道ついでに、当時の人々の服装について考えてみたいと思います。まず、古事記にあるイザナミとイザナギについて、十分にご存じとは思いますが、簡単に説明しております。
 

 イザナミが「火の神」を生む時に受けた傷が重くなって、葦原中国<アシハラノナカツクニ>から黄泉国に旅立ちます。それを悲しんだ夫イザナギはその妻を訪ねて黄泉国まで行きます。その入口でしょうかイザナミは

                        “自殿騰戸<トノドヨリ> 出向<イデムカエ>”

 この黱<ド>について、古事記伝にはその言葉についていろいろと考察しておるのですが、結局、黄泉国の正面玄関ではなく、脇戸とか後戸から出迎えたと解釈されております。一説によりますと、此の黄泉との国境には冷たい石があり、生きた人は、例え神だとしても、入る事が出来ない難攻不落の門だそうです。そこは暗黒の世界です。

 毎度のことですが、もう一寸この古事記に書かれたお話を追いかけてみますのでお付き合いくささい。この事を追い詰めて行けば上古の人の服装に行き着きますので。