私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

再び迫り来る黄泉の鬼たち

2016-12-22 09:08:16 | 日記

 蒲子<エビカズラノミ>を食べた鬼たちは元気百倍です。たちまちのうちに逃げるイザナギに

                       ”猶追<ナオ オイシカバ>”

猛追してきます。そこで、今度は、イザナギは自分の右の美豆良<ミズラ>に挿してある

                      ”湯津々間櫛<ユツツマグシ>”

 を投げ捨てます。左にあった湯津々間櫛は、既に、あのイザナギの姿を見る時の灯に使っておりますので残っていた右手に挿していた櫛です。念のために。・・・・・・・
その棄てた櫛から、今度は、

                      ”笋”

 が生え出ます。この「笋」の字を、宣長は
 「字鏡に、筍笋太加牟奈<タカムナ>、和名抄にも、筍亦笋ニ作ル、和名太加無奈<タカムナ>とあり・・・名の意は竹芽菜<タカメナ>なり。かかれば笋も、菜にするときの名を、たかむなといひ、ただには竹子<タケノコ>と云・・・・・・」
 と、説明があります。それも櫛ですから一本ではなく沢山の竹子がそこら辺りに生え、それを予母都志許売<ヨモツシコメ>が抜き食べている間にイザナミは迫りきた危険から

                      ”逃行<ニゲイデマシキ>”

 その様子を見ていたのでしょうかイザナミは、このシコメたちでは、到底、にっくきイザナギを捉えることはできぬと思ったのでしょうか、なおも逃げていくイザナギを、今度は、追っ手を変えて追わすことにしたのです。


「蒲子が生える」

2016-12-21 10:55:03 | 日記

 にっくき「あが妹子」と激怒して逃げるイザナギを「予母都志許売<シコメ>」に追わします。余程、空腹だったのでしょうか(黄泉の国の人は総て空腹だったと言います)イザナギが投げ捨てた「黒髪鬘<クロミカヅラ>」がら

                        “蒲子<エビノミ>」”

 が生えますが。

 又、ここで、寄り道を。
 この「エビノミ」とは何ものでしょうか???。宣長は、葡萄葛<エビカヅラ>のことで、書紀には「葡萄」とあり、また、此の蔓草には鬚<ヒゲ>があり、エビに似ているからその名が付き、「蒲子」、即ち、「エビ」の子だから“エビの実<ミ>”としたのだと説明があります。
 ちなみに、その葡萄蔓<えびかづら>とは。写真でどうぞ

                                

  これをシコメ達が“摭食<ヒロイタベル>”間に、そうです。
 「食べ物を与えてそれを空腹なる黄泉の鬼どもがむさぼり食べている隙に逃げる。」
 これがイザナギの黄泉から無事に立ち返る作戦だったのです。でも、余りにも空腹だった志許売<シコメ>たちは、イザナギが考えていたよりはもっと手ごわかったのです。その食べ方の速いことったらありません。その蒲子は、瞬く間に食べ尽されてしまい、再び、彼等はイザナギを追いかけます。どんどんと真近に迫り来ます。さてどうなりましょうか???


「黒髪鬘<クロミカヅラ>

2016-12-20 10:17:47 | 日記

 黄泉の醜女(志許売)においかけられたイザナギは右の美豆良<ミズラ>に括りつけていた

                  “黒髪鬘<クロミカヅラ>”

 を投げ捨てます。

 ここへきて、ちょっとまたまた、横道へ反れますのでご勘弁を!!!!!!

 と云いますのは、昨日も書いたように、上代には、絵のように、男女ともその頭に飾りとして『蔓草』を使っていたのです。

     

  あの「天津日子根命」を生んだ天照大神の髪に纏った「玉鬘<タマカヅラ>」も蔓草です。

 元来、蔓(かづら)・葛(かずら)は長く地をはい、どこまでも伸び拡がることから、命が長らえるようにと人々の頭飾りとして使われたのですが、それが後になって(万葉の頃から)「絶えぬ」「長し」「はふ」「たゆ」「操る」等の枕詞として使われ始めたのだそうです。

 さて、「黒髪鬘」を、宣長は
  「<クロミカヅラ>と読むのがよく、黒色の髪飾りではなく、鬘の一種である」
 と説明しております。そして、その鬘から蒲子<エビカヅラノミ>が生えたのです。それを追い来る「予母都志許売」に捕まらないで逃げきる手段にしたのです。さて、それは明日に。


イザナミの復讐

2016-12-19 09:26:40 | 日記

 それまでの愛情の反作用で、激怒したイザナミは、今はにっくきイザナギを逃がしてなるものかと家来に命じて追わすのです。それが

                     “予母都志許売<ヨモツシコメ>”

 黄泉の国の鬼です。
 このことについて、宣長は“おそろしき物を、世に鬼といい、形の恐ろしく見悪<ミニク>きを云う。”とあり、ただし、この場合の「鬼」は、仏教の伝来以来、日本人の間で考えられるようになった地獄の『鬼』と云った概念ではなく、書紀に書かれているように「醜女<シコメ>」だと説明しております。(なお、日本書紀には「泉津<ヨモツ>醜女、一云泉津日狹女<ヒサメ>」と)

 この「志許売」を使って、逃げて行くイザナギを捕まえようとおわすのです。イザナギも捕まっては大変です。ただ、逃げるだけでは黄泉の国の道です。鬼たちには敵いません。すぐに追いつかれてとっ捕まること疑いなしです。そこでイザナギは作戦を立てます。「地獄の沙汰も金次第」ではないのですが、彼等から逃げおおせる手段は何かないかと考えるのです。まず、取り出したのは、その髪に挿していた

                       ”鬘<カズラ>”

 です。「鬘<カツラ>」は、本来「カズラ」から派生した語で、古代の人々は男女を問わず髪がざりに「かずら」を捲きつけて飾りとして使っていたからその言葉が生まれたのだそうです。


「斗呂々岐弖<トロロキテ>」

2016-12-18 19:34:07 | 日記

 光を灯したイザナギが見たものは、イザナミの身にわいた宇士<ウジ>でした。

                “宇士多加礼<ウジタカレ>斗呂々岐弖<トロロキテ>”

 と有ります。斗呂々岐弖<トロロキテ>ですが、イザナミの身をとろかすと言う意味です。その身はとろけて、昔の美しいイザナミの姿がありません。ウジ虫が、只、その身にまぶれ付いている様な状態になってしまっていたのです。しかも、その頭、胸、腹、陰部<ホト>、左右の手、そして左右の足に、八つの雷神が生まれておりました。

 この時、イザナミは大変立腹します。そうでしょう。女性です。常に、自分の美しさを追求している身でありながら、その女性の一番醜い姿を、あろうことか、最愛の夫に見られてしまったのです。「見ないでください」と頼んでおいたのに、約束をほごにしてみられてしまったのです。今までに培った深い深い愛情もいっぺんにどこかへ吹っ飛んで行ってしまい、その反作用でしょうか、その愛が憎しみに、突然に倍増して、しかも、世の中で、最も、恐ろしい雷神に変身しているのです。そのまま、その場にいようものなら何時その雷神たちに打ち殺されるかも知れないという状況です。逃げるが勝ちです。大急ぎてイザナギは

                     “畏而逃還<カシコミテ ニゲカエリ>”

 ます。「畏」を「カシコミテ」と読ましておりますが、今までに感じていた愛情はいささかも見えず、ここに来た事さえ悔い悩んで、唯だ、一目散にこの場から退散することだけを考えているようなイザナギの身の勝手さにあきれたイザナミの憎しみは募るばかりです。
 

 さあ、どうなりますやら??また明日にでも・・・・・