私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

本を読まない???「又吉さんに背中押され??」

2018-03-21 09:40:23 | 日記
 今朝の新聞社説に

    “1日にまったく本を読まないと答えた大学生が53.1%・・・・”

 と言う記事が目に飛び込んできました。その中で社説さんは
 
 『物語の展開に心躍らせ、言葉の魅力に酔う。ノンフクション作品を通じて、それまで知らなかった人の営みに目を開く。歴史や社会、科学への知見  を深め、明日への指針を探る。』

 と述べられております。将にその通りです。“青年よ。大志を!!!”と言うつもりはありませんが、もう少し活字から受ける感動と言うか、自分の成長を促がす起爆剤くらいにはしてほしいと思うのですが、どうでしょうかね。「53.1」と言う数字に驚いております。源氏物語や今私が毎日書き綴っている古事記等の古典でなくてもいいのですが、わんさとある本の中から自分の好きな物を選んで、活字から受ける感動を是非体験してみることも大切な人としての生き方ではないでしょうか???、本を読む事は、又、おつな物ですよと言う事を味わってもらいたいと思います。こんな面白い物をどうしてと言う気分になります。80歳の老人にはですが。どうでしょうかね。
 この社説氏は次の様にも書いております。

  ”又吉直樹さんは、読書の面白さを実感するのは、言葉にできなかった複雑な感情や明確に描写されているのを読みときだ、と著書に書いている。
   「これやったんや」と・・・・・


 味わい深い文章ではありませんかね!!!!!!!!!!!!!!!!!!

山田之曾富騰<ヤマダノソホド>とは

2018-03-20 09:42:13 | 日記
 少名毘古那神が常世国<トコヨノクニ>に行ってしまった後、オホクニは出雲の国を治めるのに大変困ってしまいます。しかし、それを説明するのではなく、ここで、古事記は、「少名毘古那神」の名をオホクニに教えた「久延毘古」とは何者か説明がしてあります。それを

    “久延毘古者。於今者山田之曾富騰者也。此神者足雖不行其盡知天下之事神也”

 と。
 「クエビコは、今で言う山田の曾富騰<ソホド>、案山子(かがし)のことだ。この神は足は歩くことができないが天下のことは、悉く、知っている神様だ。」
 と説明しています。

 要するに、この「久延毘古」は歩くことが出来ないため、その場に何年もの間じっとして居るので、何事でもよく知っている神様だから、この「少名毘古那神」の事も知っていたのだと、改めて説明したものだと思われます。そう思うと、この「久延毘古」はどのくらい長くそこにいたのかは知りませんが、推定すると

           “天地初発之時<アメツチノ ハジメノトキ”

 から、もしかして数万年も前から???そこにじっと立っていたのでしょうかね。それはともかくとして、「多邇且久<タニグク>」といい、この「久延毘古」といい、誠に面白い、我が国開闢以来の、大変に古い世の人々が発していただろう言葉の響きまで聞こえてきそうな感じにさせられます。読書とは面白いものですね。今更のように感じられて仕方ありません。

「少名毘古那神」とは

2018-03-19 11:13:00 | 日記
  高天原に連れて行ってその親「神産巣日神」に尋ねたところ
 「この子は我が息子であある。このスクナビコと協力して国を作り堅めなさい。」
 と言われたのです。そして二人で国を作ります。だが、未だ、その国が整わざる時、「然る後」にです。シクナヒコは

          “常世国<トコヨノクニ>”

 に渡り行ってしまうのです。
 ここで、またまた疑問点が生まれます。この「常世国」とは何処なのでしょうか???「スクナヒコナ」は神産巣日神の手俣が「クキ」漏れ出た子ですから、日本ではなくて朝鮮の国あたりで生まれたの子ではないかとも思われます。そうだとすると、出雲のことばかりにかまけているわけにはいきません。遠い自分が生まれた国(百済など朝鮮半島辺りの国ではないでしょうか???大変栄えたいわゆる「トコヨ」、年中が春のような栄えている国)へ帰って行ってしまわれたのではないでしょうか。鉄などの最新の技術、知識を持っていた人だったのでしょう???その持っている最新知識を、常にオホクニに教えていたのです。、           「

                “顕白<アラハシ モウス>”

 です。そんな「スコナヒコナ」がオホクニの元からいなくなったのです。その時のオホクニの心情はいかに??


“久岐<クキ>”とは

2018-03-17 10:09:41 | 日記
 “久岐<クキ>”は、神産巣日神がオホクニに言った言葉ですが、これはここで初めて使った言葉ではありません。あのイザナギがその妻が生んだ「イザナミ」の死に至らしめた御子である火の神

         “迦具土神<カグツチノカミ>”

 を持っていた「十拳剣<トツカツルギ>」でその頸を切り放ちますが、その時流れ出た血などからも八神が生まれます。その子の内の一人の誕生の時にも使われております。その一人に

“闇緒淤加美神<クラオカミノカミ>”

 がいます。此の子も又

          ”自手俣漏出所成”

 とあります。
 これを<タナマタヨリ クキデテ ナリマセル>と。「漏」を、<モル>ではなく、わざわざ、<クキ>と読ませております。しかし、「久延毘古」(案山子)が教えてくれた高天原の神産巣日神を尋ねた時に、オホクニに言れた言葉の中にも「クキ」が使われており、

         “久岐斯<クキシ>子也<ミコナリ>”

となっております。

 どうでもいいことなのでしょうが、時間を持て余しておりますので、つい、そんなことにまでも調べてみました。太安万侶が語った物語でしょうが、どうしてこのような違いが生まれたのでしょうかと思いながら書いております。


     「漏<クキ>」と「久岐<クキ>」、この違いの分かる人はいませんか????宣長もそこまでは追及しておりませんので・・・・ 

久延毘古<クエヒコ>の登場

2018-03-16 09:58:59 | 日記
 <クエビコ>は、どこからどのように登場して来たのかは分からない之ですが、その経緯についてはどうでもよいかのように、此処で、突如として、登場します。「物語」と言うものは本当に便利な物ですね。何処でも、自由自在に、造ったりすることも出来たり、また、飛び出してくることも出来たりできるのですから。
 まあ、そんなことはどうでもよろしい。誰かが疑問に思ったりしておることでも、平気で、それが架空のこの、であっても、実際にそこにあるように物語を展開させることができるのですから、大変、便利な手法だと言わざるを得ませんですよね。「どうして????」だなんて思うこと自体が不遜なることなのですよ。と、言わんばかりに即座に解決することができるのです。

 まあこの場合も、直ぐ解答が導き出されます。すなわち、「クエビコ」そうです。「案山子」がオホクニに教えます。

      “此者神産日神之御子少名毘古那神<コハ カミムスビカミ ノ ミコ スクナヒコナノカミ>”

 と。そこで、オホクニは、早速、天にまします「神産日神」を訪ねます。これも、地上から天までです。そんなことが即座に出来るのですかと問いたいようなことですが、それが可能な世界が神の世界での話です。「少名毘古那神は本当にお子様ですか」と尋ねます。すると、神産日神は

  “此者実我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也<コハ マコトニ アガミコナリ。ミコノナカニ アガ タナマタヨリ クキシミコナリ”

 と申されます。 自分の指の股から“久岐斯<クキシ>”毀れ落ちた子供だと言われたのです。