私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ほんの少し平安の昔を・・・「沓冠」の体とは

2020-02-06 10:18:57 | 日記
 尾崎左永子の「源氏の薫り」という本の中に出ているのですが

    “逢坂も はては往来(ゆきき)の 関もゐず 
                     尋ねて訪い来(こ) 来なば帰さじ”

 という歌をある時、「村上亭」が彼に仕えている多くの女性(女御や更衣たち)に贈ったのだそうです。すると、この女性たちは、それぞれにこの歌を解釈して返歌をしたのだそうです。(栄花物語より)

 こんな歌(ラブレター)を送られることは、今の時代には、稀有な珍事でしょうが、「もし」という言葉があったとしたら、あなたならどうされますか。
 なお、これも紫の時代には上流社会では必然のことだったのだそうですが、手紙には、必ず、和歌を添えなくては、決して一人前の人として、存在を認められない社会だったのだそうです。もし、当時の社会に「スマホ」なんてものがあったなら、下の下の人間のすることだと思われていたでしょうね?????
 さて、「もしもしずくしですが」皆さんが当時の上流社会の女性だったとしたら、この歌の解釈をどうされるでしょうか。

 この歌は尾崎さんの説明によると、この歌は
              “沓冠<クツカブリ>”
の体で、各句の冠と沓、つまり上一字、下一字を読んでいく「なぞなぞ歌」で、一種の暗号文の歌だったのだそうです。その文字を取ると
    「あはせたきものすこし」
 になり、「薫物を少しください」となり「お香をください」です。こんな歌を出して一種の当時の社会的な「お遊び」にしていたのだそうです。現代では消えうせた社会風潮だったのですね。
 それにしても、これなどの中に見えるように平安朝の女性の感性の豊かさには今更のように驚かされますよね。

 今日もまた余残ごとですが、どうでしょうかね????

応神の御歌は・・・

2020-02-05 09:29:19 | 日記
 ご馳走として差し出された越前の蟹を肴に、大盃の一杯のお酒を手にされた応神天皇はあまりの歓迎の大きさに、つい口から歌が飛び出してきます。
          “許能迦邇夜<コノカニハ>・・・・美志麻邇斗岐<ミシマニトキ>”
 です。そして続けて更に

       “美本杼理能。迦豆伎伊岐豆岐。志那陀由布。佐佐那美遅袁。須久須久登 和賀伊麻勢婆・・・”

 と詠います。
      <ミホドリノ カズキイキズキ シナダユフ ササナミジヲ スクスクト ワガイマセバ・・・>
 です。
 「淡海に沢山いる鳰鳥のように 潜ったい浮かび出たりして息つきしながら 上り下りする坂道の多い 近江路を すくすくと速足で、私がきてみれば・・・」

 ここまでが応神天皇の心の内を相手の女性に打ち明けるための「序文」なのです。ラブレターの書き出しの言葉なのです。現代では、そんな前書きも何もない、直接
   「変しい変しい・・・」
 という書き出しが多いと聞いていますが・・・
 「そんなもんはもう、今じゃあ、いらんのじゃ。直接携帯で連絡するよ」いう輩がほとんどたという言葉も聞こえてきますが????
 でも考えてみれば、この古事記の昔が、なんとなく懐かしく恋しく思われて仕方ないのですが。85歳の老人にはね!!!
 そこで、私は、今、少々源氏の昔の窓をたたいているのですよ。ドアーを、ただ、ノックしているだけですが???

       

捧げ持った盞を受け取った天皇は・・・

2020-02-04 11:30:19 | 日記
 その翌日に立ち寄った矢河枝日売<ヤカハエヒメ>の家で天皇は大変な歓迎を受けられます。まず、大御饗(沢山のご馳走)を受けます。その席で、ヤカハエヒメは大御酒盞を捧げ持ってお酒を勧めます。そのあまりにも嬉しい大歓迎を受けて天皇は一口お酒をお飲みになっかのでしょうか??そのの前に並べてある肴の中に蟹があったのでしょう、ついそれが口にを突いて出てき言葉が
           “許能迦邇夜。伊豆久迦邇<コノカニハ イズクノカニ>”
とです。
 この美しい蟹は大変遠い敦賀からはるばる横歩きしながら「斗岐<トキ>」遠くから急いでやってきたのでしょう。
 と、そのカニの見事さ、美しさを褒めたたえるのです。
           

応神天皇はお酒を・・・

2020-02-03 09:51:54 | 日記
 矢河枝比売の家に立ち寄った天皇に一家総出で大歓迎です。「大御饗<オホミアヘ>」を奉りますが、まず初めに、比売は

                “大御酒盞<オオホミサカズキ>”

 を献上します。

 ここでまたまた世残余ごとです。ここに書かれているように「大」です。どの位の大きさかといいますと、一升とはいきませんが少なくとも2、3合ははいるような盞だったのはないかと思われます。その「盞」を比売は天皇の前に捧げ持ち来て差し出しますが、まだ、お酒は口にはしてはいなかったのです。
 どのくらいの盞かといいますと、その盞はこれくらいのものではなかったかというものをお見せします。これも私の宝物ですが???
         
     (直径7寸の盃です)

その翌日です

2020-02-02 10:25:21 | 日記
応神天皇が矢河枝比売を一目ぼれした翌日です。「汝はどこにお住まいですか。」と聞いて彼女の家を知っていたのでしょう、早速に訪ねてまいります。父にはその日に話していたので、その男の人が訪ねて来るのを知っていたのでしょう。その人が天皇ではないかと察知し、

        “厳餝其家。候待者”
        <ソノイヘヲ イカメシクカザリテ サモライマテバ>

 準備万端整えて待っていました。予定通り訪ねてきた応神天皇に大変おもてなしをするのです。早速

        “献大御饗之時<オホミアヘヲ タテマツルトキ>”

 お訪ねになった天皇に対していろいろな御食事を奉って歓待します。まず捧げたのが「大御酒盞<オホミサカズキ>」です。