私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「今私の目の前にいる乙女は・・・」

2020-02-11 09:23:56 | 日記
 “波那美波志。比斯那須<ハナミハシ ヒシナス>”
 と、目の前にいる「麗美嬢子<カホヨキオトメ>」の姿を眺めながら言い放ちます。
 「歯並びが大変美しく、しかも、その八重歯でしょうか<ヒシナス>菱のように鋭く輝いていて可愛い」
と、いうぐらいに解釈出来るのでは思いますが????
 それに続いて天皇の口から飛び出した歌は

    “伊知比韋能。和邇佐能邇袁<イチヒヰノ ワニサノニヲ>"

とです。
 何のことやら、これもまたさっぱりわからずです。そこでまた宣長です。この<イチヒヰノ>は「檪井之」で、大和にある地名だそうです。そこから採れる土が「和邇佐能邇袁」で(丸邇坂の土<ニ>)だそうです。この地から採れる土を、当時の女性は眉墨にして使っていたのだそうです。
 こらからわかるように、オオジンは麗美嬢子のその美しさについ、まずその姿勢を、次には歯を、そして眉毛について褒め称えているのです。よほどこの乙女が気に入ったのでしょうね!!!!そして、更に、

    “波都邇波 波陀阿可良気美。志波邇波 邇具漏岐由恵・・・”

 と、ジンムの歌は続きますが、この解釈も明日に・・・読むのにこれほどまでにくたびれる歌はないですよ???ね。・・・・

宇斯呂伝波<ウシロデハ>・・・

2020-02-10 10:34:30 | 日記
 天皇の恋の歌はいよいよ熱を帯びて、辺りに響きます。

     “宇斯呂伝波 袁陀弖呂迦毌<ウシロデハ オダテロカモ>・・・”

 と。
 宇斯呂伝波<ウシロデハ>は「後方者」です。「オモテ」「ヤマテ」などの「テ」で方向を意味し、「あなたの後ろ姿は」です。その姿が
     “袁陀弖呂迦毌<オダテロカモ>”
なのです。
 これもまた、何のことやらさっぱり・・です。<オダテ>とは「小楯」で、楯の木のようだという意味です。
 「あなたの後ろ姿は少しも前屈がみでなく、楯のように真っ直ぐときちんと伸びていて大変美しかったよ。」
 この読み方について宣長は、後の<ロカモ>は一首の結びの言葉で、これで終わり、次からは、また、意味の違ったことを歌う時に使う言葉でだとして、“宇斯呂伝波 袁陀弖呂迦毌”は昨日見た乙女姿を歌ったものだ、と説明がしてあります。

 そして、

     “波那美波志。比斯那須<ハナミハシ ヒシナス>”

 と、今のそこにいる乙女の美しい姿を高らかに歌います。
 

応神天皇は詠います。

2020-02-09 10:05:55 | 日記
 「大御饗<オホミアヘ>」に、淡海の美女「矢河枝比売<ヤカハエヒメ>」から御酒盞<オホミサカヅキ>が差し出されます。それを手にした応神天皇は美味しそうに並べられた肴と差し出された盞を目の前にして・・・
 
 “鄙のせせこましい近江路「志那陀由布。佐佐那美遅袁<シナダユフ ササナミヂヲ>」を苦しみながら旅を終えて、再び、此の地にたどり着いてきて、
        “許波多能美知邇<コハタノミチニ>阿波志斯袁登売<アハシシオトメ>”
 「木幡の道」で偶然に逢った乙女は。”

 と詠います。
 これからが、この物語の真骨頂となる天皇による眼前に侍る乙女に対する愛の歌です。こんな歌が、即興的に「よくぞ口をついて出てくるものか」と感心しきりです。少々長々と天皇は乙女に語りかけますが、あまりにも長いので、それは、また明日にでも・・・・

是もご存じでしょうが・・・

2020-02-08 10:37:16 | 日記
「源氏」ですが、それについてもう一日だけ書いておきます。彼らが生活の場としていた館、そうです。「寝殿造り」ですが

              

 のような造りなのだそうです。
 光源氏の屋敷にはこのような建物が四棟揃っている大邸宅です。即ち、その東南には「春の町」があり紫の上と源氏が、東北には「夏の町」に花散里が、西南の「秋の町」には秋好中宮が、西北には「冬の町」があり明石御方がそれぞれに住んでいたのです。愛する女性をいつも4人同じ屋敷内にです。現代では、決して、考えられないような家庭生活をしていたのです。これが貴族理想の生活だったのです。
 このそれぞれの町の様子も紫式部は詳しく描写しております。その一つ「春の町」は
 “築山は高く、春花のたくさん植え、御前に近い前栽には、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじなどを配し、秋に咲くものをその間に「むらむらほのかにまぜたり」”
 と絵巻物のような館の様子を詳しく文字によって描き出しております。

  こんな絵も
                  
ありますが

ちょっとばかり我がブログを開いてくださるお方が多いので・・・

2020-02-07 11:14:34 | 日記
 「この2,3日沢山の」と言っても、私のブログでは閲覧者が350pv程度でが、それでも有頂天になって、またもや脱線します。よかったらお読みいただけますと幸いですが?????・・・・

 平安の恋文について少々書いたのですが、それについてもう少し詳しく書いてみます。詳しく知りたいお方は、先の

               尾崎左永子の「源氏の恋文」

 を読んでください。これも名著ですよ!!!!!!!!!!!!!!!!

 さて、今ではとても考えられないような形式があったのだそうです。その平安の恋文は
 まず最初に、ラブレターを書く紙がその大切なる要素になるのです。現在のように安っぽい何処にでも転がっているような便箋では駄目なのです。
            “典雅な薄様(うすよう)”
 薄い雁皮紙で、さまざまな色合いの紙でなくてはいけません。そして、当然、筆で書かれます。更に、その内容の中心は歌でなくてはだめなのです。その歌も古今和歌集の中にある歌を本歌(もとうた)として読まれていなくてはいけません。これだけではいけません。この手紙には、それぞれ四季にお応じた木々の枝を添えなくてはなりません。
 例えば、梅の頃は紅梅の小枝に薄赤色の薄様、藤の頃には藤の枝に紫色の紙というように・・・その紙には焚きしめた香りが必要です。さらに、字も洗練された大変美しいものでなくてはなりません。

 このような手紙であってこそ初めて「恋文」という形式が整い、相手の人が読んでくれるのです。それ以外の手紙であっては相手は見もしてくれないのです。こう考えると、当時の人は男も女の相当の教養が大切になるのです。教養が一生を作用するといっても過言ではなかったのです。