私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

応神天皇の御世は・・・

2020-03-12 10:36:16 | 日記
 応神天皇の時代は、それ以後の我が国の諸制度の元になる新しい制度が確立さてています。
 それが
       “部”
 です。「部」とは、もともとは百済にあった組織で豪族が所有していた人民の集団ですが、古事記に出ております。

         ”此之御世。定賜海部山辺山守部伊勢部也。”
        <コノミヨニ アマ ヤマベ ヤマモリベ イセベヲ サダメタマフ>

 このうち「伊勢部」はどのような集団か不明なのだそうです。
 更に、この時代には新羅から渡来してきた人たちによって堤と築かせ灌漑用の大規模な池を作っています。それを監督した人が
                 「建内宿祢」
 です。そして出来上がった池の名前が、これも不思議ですが
                 「百済池」
 です。本来ならば新羅の人達によって造られたのですから、当然「新羅池」だと思うのですが、「百済池」と書かれております。宣長説によりますと、造られた池があった土地が「百済」という所ではなかったからだろうかと・・・

 




大贄<オホニヘ>

2020-03-11 09:44:28 | 日記
 吉野の国主が「口鼓を撃ち、岐を為して」歌ったのは、天皇に献上する「御饌物<ミツケモノ>」(吉野の酒)を持参した時です。この行事を

         ”大贄”
 
 と称したのです。
 この時代の大贄に持参した各地の特産物は、酒のほかに栗、魚介類、茸、猪や鹿な肉などがあったようです。
 この制度は天皇への服属儀礼の一種で、被征服者が征服者に食物を献上し、天皇がその大贄の山野河海の産物を食べることで、その地が天皇の領有地になり天皇の配下に属することを意味します。
 この時代はいまだに天皇の直接の支配地は近畿一円(大和・摂津・吉野・近江・播磨など)に限られていました。日向もその中に入っていたのかとも思いますが???ごく限られていた地域だけだっとようです。吉備、出雲、筑紫などの地方の豪族は、その地方の王国として独立していて、大和との連合政権の有力なる一員であって、直接支配下には置かれてはいなかったのは確かです。
 この写真を見てください。この時代のことです。

            
 

吉野の国主たちは、踊り歌います

2020-03-10 10:49:23 | 日記
 また、ある時、吉野の人が作った“大御酒<オホミキ>”を天皇に献上したときに歌った歌も出ています。まあ、どうでもよいことですが、ついでのことに書いておきますのでよかったら読んでみてください。

        白檮(かし)のふに 横臼(よくす)を作り
        横臼に 醸(か)みし大御酒
        甘(うま)らに 聞こし以ち食(お)せ
        まろが知(ち)

 意味は「樫の木で作った臼で我々が造った御酒は大変甘く美味しいです。さあどうぞ思う存分に楽しんでお飲みください。我々の大王様よ」です。<チ>は「人を尊とびて言う言葉で、我が君という意味なり」とは、宣長先生の言です。

 なお、この時、吉野の人たちは

              “撃口鼓為伎而<クチツツミヲウチ ワザヲナシテ>”

 とありあすが、「伎<ワザ>」は「わざおぎ」で、手ぶり足踏みなど面白くおかしい技や歌い舞うなどして、神人を和らげ楽しませることです。又、「口鼓」は、現在では日本には残っていないのですが、アイヌの人々が持つ楽器「口琴」のような楽器だと思われます。

 これなどは天皇へ献上される地方の特産物の納付される時の儀式だったのです。このような記録が残っているいるために、後世の人が古代の社会の儀式を知ることができるのです。そんな意味でも古事記は大変な貴重な意義深い歴史的な資料となるのです。

応神天皇の御世に・・・

2020-03-09 12:28:24 | 日記
 応神天皇の天津日継<アマツヒツギノミコ>は大山守命・大雀命ではなく、近淡海で出会った麗美嬢子<カホヨキオトメ>「矢河枝比売」との間の子
             “宇遅能和紀郎子<ウジノワキイラツコ>”
 ですが、話題に上るのは、先の髪長比売の場合も、次の刀の場面も、いずれも、大雀命です。応神天皇の先触れの如くにです。ここにも、突如としてまたもや、歌が飛び出してきます。それはなぜだかわからないのですが、吉野の人たちが応神の持っている御刀<ミタチ>について歌っているのです。
 「大雀命のお持ちの御刀<ミタチ>は、御子がお歩きになる度に、葉を落としてしまった冬木が空に舞い立っているように先までまでそそり立っていて揺れ、さやさやとあたかも音を立てているようだ」
 と。
 

オウジンの歌に対してオホサザキの返歌が・・・・

2020-03-08 12:01:58 | 日記
 父親の恨み節を耳にして、大雀命もまたその喜びを歌って答えます。
 その歌を

     “道の後(しり) 古波陀嬢子(こはだおとめ)を
     神の如 聞えしかども 相枕まく”
 (はるばる遠い日向の国の 古波陀の乙女。その人の名を遠い雷の鳴るように聞いていたのですが、いま、私がこうしてお互いに手を差し交わして寝ることができるのだ。なんと嬉しいことでしょうか)
 と。そして、ご丁寧に、更に続けて、みんなの前で臆面もなく歌うのです。

     “道の後(しり) 古波陀嬢子(こはだおとめ)を
     争わず 寝しくをしぞも 愛しみ思う”
 (すなおに乙女が我がもとに来てくれた。なんとうれしいことでしょう。なんと可愛い人なのでしょう)
 とも。

 このように古代からわが国では歌を詠むことが、日常の生活の中で、欠くことのできない生活習慣だったのです。それが万葉集という美しい日本の歌集の生まれる原因にもなったのです。誰かが命令して作らせたものではなく、ごく自然的にそこらあたりにあったものというか、人々の生活の中に根付いていたものを、単に、拾い上げて編集しただけのものです。平安時代の歌集のように専門的な代表者の詠んだものを集めたものではありません。そこらあたりに、読んでどこか心地よい心に響くような美しい素朴な響きが自然と感じられる原因ではないでしょうか。

 私の好きな万葉集の歌を

   ”恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 我妹子が 我家の門を 過ぎて行くらむ”

   “うつくしと 我が思う妹は 早も死なぬか 生けるとも 我に寄るべしと 人の言はなくに”