結果やできばえばかり求めると、オリンピックを見て思う
◎浅田選手に自分を重ね
ソチオリンピックが幕を閉じた。オリンピックにどっぷり浸かっていたわけではないのに、なぜかいまだに心を締めつけていることがある。あの浅田選手のこと。
ショートプログラムでの思わぬ事態に、日本中が固唾を飲んだ。そして、なぜか他人事とは思えず、食事は喉を通っているのか、夜は眠れただろうかとまるで親のように心配している人がたくさんいた。かつて日の丸の重さに耐えきれず、自ら命を絶ったオリンピック選手がいたことなどを思い出し、不安がよぎったと言う人さえいた。
最近の日本社会は、誰かが失態や失敗をおかすと、それ見たことかと寄ってたかってバッシングするという空気が生み出されている。自己責任論をバックに、自分の不安やストレスをそこにぶちまけるかのように…。
しかし、今回は違った(と言っても「あの子は大事な時には必ず転ぶ、団体戦に出なきゃ良かった」という元首相の発言があり、批判の嵐)。
なぜだろうか。
お願いだから負けないで、次のフリーでがんばってほしい、とこれまた手を合わせ祈るような気持ちで応援していた人たち。そして、全力で舞い終えた後、上を見上げ、涙をこらえて立ちすくむ姿を見て、一緒に泣いたたくさんの日本人。
これは、いったいどういうことだろうか。これが日本人の良さだと言う人もいる。
しかし、今日、失敗を繰り返し思い通りに進まぬできごと、思わぬ不運に遭遇し立ちすくんでいる人が、この国にはあまりにもたくさんいるからこそ、どこか自分の姿を重ねて他人事とは思えなかったのではないだろうか。だからこそ希望の光を感じたのだ。いや、感じたかったのだろう。
母を想い、難病と闘う妹を励ます葛西選手が4年後にもう一度挑戦するという姿にも、多くの人は励まされもしたのだ。
◎ゆっくりていねいに
一方で、こういう空気が今の子どもたちを息苦しくさせはしないか、と懸念もしている。
「うちの子も3歳からスケートやらせたい」とスポーツエリート育成に拍車をかけることにはならないだろうか。
そして、さらには「見てごらん。あのアスリートたちは、死に物狂いの努力をしてきたから、あんなに立派になったんだ。困難にめげず、もっと努力を!」と子どもたちに追い打ちをかける大人たちの動きが増していかないだろうか。
道徳教育が教科になり、評価の対象にされようとしている。今こうしたアスリートたちが、お手本にされて教科書の教材に登場してくるのではないかと思う。
エリート大学の院生の手紙だ。
「私にとって子どもでいることは〝苦行〟のようなものでした。小学校ではテストで100点をとるため、中学では内申をとるため、高校では大学に合格するため学校に通っていました。いつも完璧を求められ、何でも真面目で、何でも一番でなくちゃと強迫観念にとらわれたような子ども時代でした。ちょっと忘れ物やケアレスミスをすると、自分は『欠陥のある存在』だと思い、自分を消したいとさえ思っていました。…」
昨日出かけたある県の先生方の研修会でのこと。全国学力テストで結果を出せない教師へのバッシングがあった中で、とうとう生徒のテストを改ざんする事件が起きていると聞いた(今にこういうことは蔓延しますよ)。
結果やできばえばかり要求し、努力せよ、がんばれがんばれの旗を振り続けると、ゆっくりていねいでなければ育たない人間の教育は、確実に崩壊する。ゆっくりていねいということは、失敗をする余裕があるということ。そして、その失敗を大らかに受け止め、子どもの育つ力を信じて待つ大人がいるということだ。
華々しいオリンピックに出られたのは、ほんの一部のスポーツエリートたち。もちろん彼らの血の滲むような努力に拍手を送りつつ、夢がかなわなかった多くのアスリートたちにも熱い拍手を送りたい。
(とさ・いくこ 和歌山大学講師・大阪大学講師)