GW到来で今年も鯉のシーズンがやってきた。昨日までは5連勝で首位をがっちりキープ、一昨日のゲームは先日亡くなったレジェンド衣笠祥雄さんの追悼試合。これからカープの新たな伝説を作ってくれるであろう鈴木誠也が4番に復帰2日目で、衣笠さん同様のフルスイングの満塁ホームランで勝利を飾った。
さて訃報に触れて、1975年の初優勝やそれに至る弱小球団時代の頃のことを思い出す。と言っても当時、広島と島根の県境近くの田舎に育った私にとって大都市・広島にある市民球場は遠い存在で、試合観戦は専らテレビの巨人戦の放送しかなく、カープファンの少年が自然と育っていった。
高校3年生の時だった。1975年10月15日の午後、相手は後楽園球場の巨人。カープ創設26年目の待ちに待ったその瞬間がやってきた。授業中にもかかわらず、先生がラジオを持ってきて教壇に置き、授業そっちのけでクラス全員が耳を傾けた。いやおそらく全校の生徒と先生がまさに興奮の渦の中にいたんじゃないだろうか。
そのチームの中心選手が衣笠さんと山本浩二さん(解説者)で、以後カープは赤ヘル軍団と呼ばれ何度も優勝、さらに日本一にもなった。それから衣笠さんは前人未踏の大記録を樹立し、「鉄人」と呼ばれる球界のレジェンドになっていった。
カープの歴史は原爆で廃墟となった広島の戦後復興とともにある。市民がお金を出し合って球団を支えてきたというまさに市民球団で、広島の再生とカープの初優勝は市民にとって一体の夢となって実現した。
衣笠さんは「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」と自著で打ち明けていたそうだ。
退団後は、いつかは再びカープのユニフォームを着てくれるものだと思っていたが、結局その時は訪れず、解説者・評論家として活動した。ラジオやテレビをつけると、少し甲高い乾いた声の解説が聴こえてきて、それがすぐに衣笠さんだと人懐っこい顔が浮かんできた。その解説はいつも選手を励ましファンにとってもとても優しくあり続けた。もう二度とそんな鉄人の声を聴くことも姿を見ることもできなくなったことが実に寂しい。
さて訃報に触れて、1975年の初優勝やそれに至る弱小球団時代の頃のことを思い出す。と言っても当時、広島と島根の県境近くの田舎に育った私にとって大都市・広島にある市民球場は遠い存在で、試合観戦は専らテレビの巨人戦の放送しかなく、カープファンの少年が自然と育っていった。
高校3年生の時だった。1975年10月15日の午後、相手は後楽園球場の巨人。カープ創設26年目の待ちに待ったその瞬間がやってきた。授業中にもかかわらず、先生がラジオを持ってきて教壇に置き、授業そっちのけでクラス全員が耳を傾けた。いやおそらく全校の生徒と先生がまさに興奮の渦の中にいたんじゃないだろうか。
そのチームの中心選手が衣笠さんと山本浩二さん(解説者)で、以後カープは赤ヘル軍団と呼ばれ何度も優勝、さらに日本一にもなった。それから衣笠さんは前人未踏の大記録を樹立し、「鉄人」と呼ばれる球界のレジェンドになっていった。
カープの歴史は原爆で廃墟となった広島の戦後復興とともにある。市民がお金を出し合って球団を支えてきたというまさに市民球団で、広島の再生とカープの初優勝は市民にとって一体の夢となって実現した。
衣笠さんは「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」と自著で打ち明けていたそうだ。
退団後は、いつかは再びカープのユニフォームを着てくれるものだと思っていたが、結局その時は訪れず、解説者・評論家として活動した。ラジオやテレビをつけると、少し甲高い乾いた声の解説が聴こえてきて、それがすぐに衣笠さんだと人懐っこい顔が浮かんできた。その解説はいつも選手を励ましファンにとってもとても優しくあり続けた。もう二度とそんな鉄人の声を聴くことも姿を見ることもできなくなったことが実に寂しい。