山内 圭のブログ(Kiyoshi Yamauchi's Blog)

英語教育、国際姉妹都市交流、ジョン・スタインベック、時事英語などの研究から趣味や日常の話題までいろいろと書き綴ります。

がんばれ、がんばれ

2010-04-27 22:37:26 | 日記
子どもというのは時々、不思議なことを言います。

昨日の夕食で、息子が魚(カレイの煮付け)を食べている時、「はままつじいちゃんが「がんばれ、がんばれ、○○○(息子の名前)」っていっているのがきこえるよ!」と言いました。
「はままつじいちゃん」とは、僕の父親のこと、息子にとっては父方の祖父です。

息子は、僕の実家浜松で魚を食べた時に「はままつじいちゃん」から「がんばれ、がんばれ」と言われた経験があるのかもしれません。そして、骨を取って食べるのが多少面倒なカレイを食べながらそのことを想い出したのかもしれません。

ところが、よく考えてみると、昨日4月26日は僕の父方の祖父である幸雄じいちゃんの命日です。
幸雄じいちゃんは僕が小学校3年生の時に亡くなりました。僕が経験した初めての身内の死でした。

ちょっと変な話と思う人もいるかもしれませんが、息子が聞いたのは「はままつじいちゃん」の声ではなくて、幸雄じいちゃん、つまり、息子にとっては曽祖父となる「はままつひいじいちゃん」の声だったのかもしれません。幸雄じいちゃんは僕が小学生の時に亡くなっているので、当然息子は会ったこともありません。

僕は、自分の子どもができて、しばしば感じるようになったことに先祖からのつながりがあります。
僕が自分の息子に向かって、「おい、○○○(息子の名前)」という声は、何年か前、自分の父親が、僕に向かって言っていた「おい、きよし」の再現であり、その「おい、きよし」は、父親の父の幸雄が父に言っていた「おい、ただし」の再現であり、その「おい、ただし」は祖父の父である仙蔵が祖父に向かって言っていた「おい、さちお」の再現であり、「おい、さちお」は、僕の曽祖父の父(僕は名前はわかりません)が僕の曽祖父仙蔵に向って言っていた「おい、せんぞう」の再現なのです。そのような流れをさかのぼっていくと、僕が会ったことがない、仙蔵曽祖父が僕の祖父幸雄に向って、僕が今、息子を呼ぶのと同じように呼んでいたのだろうなと感じることができるのです。遺伝もあり声質も似ているでしょうから、その意味でも呼びかけの再現と言えるのです。

息子と手をつないでいる時にも、実は僕は同じようなことを感じます。今は、僕が息子の手を引いているけれども、何年か前には父や母が僕の手を引いてくれて、そのまた何十年か前には、父や母の両親が父や母の手を引いてくれて、……というつながりがずっと続くのです。ということは、今手をつないでいるのは僕と息子であっても、時を越えて、先祖代々がそして、将来の子孫も皆、手をつないでいるのです。

昨日は、祖父の命日。
きっと、幸雄じいちゃんは僕達の様子を見に、遊びに来ていてくれたのかもしれません。
そこで、魚の骨を取るのに苦労している息子の様子を見て「がんばれ、がんばれ」と声を掛けてくれたのかもしれません。それを、息子は会ったことのない曽祖父の声ではなく、祖父の声と認識したのかもしれません。
幸雄じいちゃん、写真が好きだったから、きっと息子の写真も撮って行っただろうなと思います。

幸雄じいちゃん、先祖の皆様、これからもどうか見守っていてください。

コメント (2)
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