僕は、今回の引っ越しが8回目の引っ越しでした。
これまでの引っ越し歴を振り返ってみます。
1回目:静岡県静岡市新川1丁目→静岡県浜松市上西町
父の仕事が変わり、転居となりました。僕は幼稚園の年中でアソカ幼稚園から蒲(かば)幼稚園に変わりました。
2回目:静岡県浜松市上西町→静岡県浜北市浜名ニュータウン(現:浜松市浜北区内野台)
父が家を建てたので、転居しました。僕は小学1年生でした。蒲(かば)小学校から浜名小学校に転校しました。転校初日、担任の先生(元小出(モトコイデ)先生)が「かば小学校から転校してきた山内圭君です」と紹介してくださいました。たぶんみんなは、僕が「かば小学校」出身ということに興味を持ったのでしょう。もしかしてカバの小学校から人間の小学校に転校して来たと思われたかもしれません。ちなみに、かば小学校時代の担任の先生は「犬塚」先生でした。
3回目:静岡県浜北市内野台→神奈川県横浜市保土ヶ谷区上星川
大学生となり、アパート暮らしを始めました。最初のアパート「清水荘」家賃が確か2万円で当時としても横浜では破格の安値でした。駅から12分くらい歩きましたが、家賃の安さから決めました。古いけど広いので、友達のたまり場となり、いつも英語科の誕生パーティの会場でした。
4回目:横浜市保土ヶ谷区上星川→保土ヶ谷区星川
大学院の在学中、大家さんが清水荘を改築することとなり、立ち退きとなりました。丘の上の眺めがいいアパート山崎荘に移りました(が丘の上ということは、坂道と階段が大変でした)。このアパートで苦しみながら修士論文を執筆したのが特に印象に残っています。
5回目:保土ヶ谷区星川→保土ヶ谷区仏向町
道路拡張のためアパートが立ち退きとなりました。非常勤講師をしている頃です。今度は仏向町というところの「協進ハイツ」というところに入りました。住所を神奈川県から書くと住所中「神仏」が同居しているありがたい住所となりました。
6回目:保土ヶ谷区仏向町→岡山県新見市新見女子短期大学教員住宅
新見女子短期大学(当時)に採用され、1995年赴任とともに引っ越しました。寒いところに来たなあというのが第一印象。最初は独身者用住居に入りました。
7回目:教員住宅独身者用→同家族用
教員住宅の家族用が空いたので、当時、まだ独身で結婚の予定もなかったけど移りました。教員住宅には合計17年半の長きに渡りお世話になりました。新婚の頃、子どもが生まれてからの生活もこの教員住宅でしたので、一生の中でもとても記憶に残る住居となるはずです。
8回目:教員住宅→夢のマイホーム
家を建てるつもりはあまりなかったのですが、急展開でこのようになりました。なったからにはここで幸せな人生を展開してゆきたいと思います。
この後、転居はない予定ですが、人生はどうなるのかわからないものです。あるいは、高齢者施設への転居も可能性がありますね。
これまでの引っ越し歴を振り返ってみます。
1回目:静岡県静岡市新川1丁目→静岡県浜松市上西町
父の仕事が変わり、転居となりました。僕は幼稚園の年中でアソカ幼稚園から蒲(かば)幼稚園に変わりました。
2回目:静岡県浜松市上西町→静岡県浜北市浜名ニュータウン(現:浜松市浜北区内野台)
父が家を建てたので、転居しました。僕は小学1年生でした。蒲(かば)小学校から浜名小学校に転校しました。転校初日、担任の先生(元小出(モトコイデ)先生)が「かば小学校から転校してきた山内圭君です」と紹介してくださいました。たぶんみんなは、僕が「かば小学校」出身ということに興味を持ったのでしょう。もしかしてカバの小学校から人間の小学校に転校して来たと思われたかもしれません。ちなみに、かば小学校時代の担任の先生は「犬塚」先生でした。
3回目:静岡県浜北市内野台→神奈川県横浜市保土ヶ谷区上星川
大学生となり、アパート暮らしを始めました。最初のアパート「清水荘」家賃が確か2万円で当時としても横浜では破格の安値でした。駅から12分くらい歩きましたが、家賃の安さから決めました。古いけど広いので、友達のたまり場となり、いつも英語科の誕生パーティの会場でした。
4回目:横浜市保土ヶ谷区上星川→保土ヶ谷区星川
大学院の在学中、大家さんが清水荘を改築することとなり、立ち退きとなりました。丘の上の眺めがいいアパート山崎荘に移りました(が丘の上ということは、坂道と階段が大変でした)。このアパートで苦しみながら修士論文を執筆したのが特に印象に残っています。
5回目:保土ヶ谷区星川→保土ヶ谷区仏向町
道路拡張のためアパートが立ち退きとなりました。非常勤講師をしている頃です。今度は仏向町というところの「協進ハイツ」というところに入りました。住所を神奈川県から書くと住所中「神仏」が同居しているありがたい住所となりました。
6回目:保土ヶ谷区仏向町→岡山県新見市新見女子短期大学教員住宅
新見女子短期大学(当時)に採用され、1995年赴任とともに引っ越しました。寒いところに来たなあというのが第一印象。最初は独身者用住居に入りました。
7回目:教員住宅独身者用→同家族用
教員住宅の家族用が空いたので、当時、まだ独身で結婚の予定もなかったけど移りました。教員住宅には合計17年半の長きに渡りお世話になりました。新婚の頃、子どもが生まれてからの生活もこの教員住宅でしたので、一生の中でもとても記憶に残る住居となるはずです。
8回目:教員住宅→夢のマイホーム
家を建てるつもりはあまりなかったのですが、急展開でこのようになりました。なったからにはここで幸せな人生を展開してゆきたいと思います。
この後、転居はない予定ですが、人生はどうなるのかわからないものです。あるいは、高齢者施設への転居も可能性がありますね。