今や「日本の企業」と「グローバル企業」をデジタルに切り分けるのは無理な話。原材料や取引先として海外を一切考慮しなくて良い、なんて企業は存在しない。ということは仮に「国民」なるものが実在したとしても、それと完全に利害が一致する企業もないし、完全に反する企業も存在しないのではないか。
憲法9条や96条の条文を書いた作品が「政治色強い」とされ、絵画展から作品撤去されたと。見る人が不快になる可能性があるということなのだが、偉い人の中に不快になった人が現にいたんだろうな。 ---県の注意応じ :福井新聞 ow.ly/kCy3i
一瞬ぬいぐるみと相談している竜王の姿が見えたが…違いますよね(笑)>bit.ly/12XF0uF王将戦 妻の小言。
日本酒度は浮秤で測定する。水より重いものにマイナス、軽いものにプラスをつける。糖分が多いものほど比重が大きくなり浮秤が浮き上がるから、日本酒度のマイナスの数値が大きくなる。
「上善如水」(固有の銘柄の話ではなく)。「太陽の光は七色の光をこめてなお無色である」。何もないのではなく、多くの物がバランス良く含まれることによる「無」。最初からバランスをとるのは不可能であり、最初から「無」を目指すものでもなかろう。「全」が「無」に通ず。
自分たち(の共同体)の必要を満たすためではなく、寧ろ交易に出すために生産する、という動機。定期市の現れ、さらに常設化。「人の間」だけでなく「時の間」の側面。
共同体における生産から、市場に出すための生産へ。共同体における労働から、市場に出すための労働へ。より有利な比率で交換できる商品生産へのシフト。不特定他者・匿名の他者との一過的な交換への依存。
自らの生産物を市場に出す「万人が商人である社会」。ここで自ら生産しない、出来ない者は、「労働者」として労働力を市場に出す。生産行為のハードルが下がっている現代社会では労働者に対して、「労働力を元に物やサービスを生産し、それを市場に出せ」と要求する傾向にある?
労働力の商品化。人が労働力を提供するのは、共同体的な「援助してもらったことへのお礼」ではなく、ヨソ者に対する水臭い「リース契約」関係。にも関わらず都合の良い時だけ共同体的な原理で「サービス残業」やら「人的支配」やらを振りかざす輩の多いこと(笑)
共同体的な「個人への信頼」から、「市場やシステムへの信頼」へ。市場での売買に依存した生活の為には、「市場が存在する」を始めとする信頼が不可欠だろうが、どのように構築されたかは様々な類型があるようだな。情報の不公平が看過できないレベルの市場だとどうか、などの疑問もある。
「聞かれない限り言わない」スタンス。保険会社に限らず、金融機関や投資信託、事業会社などは同じだろう。「儲からなければ継続できない」事実から「どのように儲けているのか」と考え、質問する姿勢は不可欠と思う。
「教養を身に付けるための方法を教えてください」って(笑)ただ、「教養を身に付ける本」とか特集と同根だろう。教養は意図的に「身に付ける」ものではなく、環境などから何となく「身に付く」ものだと思うのだが。
「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」としての教養。日本社会、日本企業であれば自明視されていることを説明できるか。国際社会に限らず、世代差も同様。そのための相手を想像すること、相手が理解できることばを持つことが必要。
「グローバルな競争ではローコンテクストな技術(モジュール化)で勝負」は疑問。恐らく、この土俵では最初から勝ち目がない。「グローバル」と見ず、「ローカルの集まり」(グローカル、か)と認識して行動する方が有利だろう。勝利を目的とするならば、軽量なのに敢えて無差別級で戦う必要はない。
@CherryS4 「失言しそうな状況だ、と意識する」くらいですかねえ。「失言になるようなことを思わない」が早いと思いますが。
「3年経てばお祝い金が貰える」は「3年間解約できない預金」のようなもの。その間「お祝い金」にあたる部分は保険料として徴収されている。
「定期特約付き終身保険」。どの部分が終身保険でどの部分が定期保険か。各保障が担保している期間を見るだけでも有意義なのだろう。
市場社会においては物的な依存関係を通じて、共同体での相互依存的な関係よりもはるかに広範かつ密接(←?)な相互依存の関係におかれている。しかしその関係は「商品の山」の背後に隠されてしまう。
平均勤続年数5年(恐らく、これでも長い方)のライフプランナーが、「人生設計における一生涯のパートナー」と称して保険を売る。悪い冗談。
マンション経営の営業電話があった。「新入社員」と云う。そんな季節なんやね。働いていない、と言うとあっさり引き下がって貰いましたが。
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