「自由はどこまで可能か」(森村進)読了。
「リバタリアニズム入門」という副題がついている。
最初に「リバタリアニズム」を
「個人的自由」「経済的自由」をそれぞれどのように尊重するか、という
座標軸に位置付ける。
その中で「リベラル」「保守派」「権威主義」との相違を示している。
これはざっくりした位置付けだと思うが、全体像を把握する上では有効。
本来「リベラル」というのが「リバタリアニズム」とイコールなのだろうが、
「リベラル」という言葉に手垢が付いている、という問題意識があるのだろう。
また、現在の様々な主張(橋下、慎太郎、TPOへの賛否、等)が
現状をどのように捉え、どのような社会を目指そうとしているのか、を理解する上で、
2種類の自由を尊重する/しないの組み合わせは
一つの視点になるだろう、と感じた。
その後、各章で「どのような権利を認めるか」及び
国家・制度・社会といった面での多くのリバタリアンの考え方、
一部は筆者の意見を紹介していく。
筆者の紹介する「リバタリアニズム」の自由や個人の選択重視・
国家機能を極小化する主張は、極論と言えば極論かも知れないが、
全体としては、あまり違和感を持たなかった。
特に「日の丸・君が代」を強制して「国民」意識を持たせつつ、
「自己責任」を強調して国による保障を切り捨てていく流れに比べれば、
遥かに首尾一貫していると思う。
# 「リバタリアニズム」の中でも、
国家の代わりに家庭や社会が強制力を発揮し、
個人の抑圧を肯定する主張もあるのだろうが。
ただ、現実に可能か、それは良い状況か、というと疑問はある。
煎じ詰めれば、それは個人が本当に「正しい」選択をできるのか、
という感覚かも知れない。
リバタリアニズムの発想では「正しい」選択、なんてものはなく、
各個人が刹那刹那で良いと考える選択が正しい選択である、ということかも知れないが、
将来の自己の権利や自由を侵害するような選択を
ある時点でしてしまう、というのは普通にある話。
それを「自己責任」と言ってしまうのは可能だと思うが、
果たして人間はそれに耐えられるほど強い存在なのかな、と感じる。
また、様々な資源(情報・金・時間など)が限られた中で
「自由に選択したから」とその結果責任を本人に負わせるのが、
果たして妥当であり、納得を得られるものなのかどうか。
もう一つは、複数の制度が存在する状況で、
「リバタリアニズム」は競争優位な思想かどうか、ということ。
因襲に捉われ、発展の足枷がある際にそれを外す時、
いきなり「自由」というのは弱い道具ではないだろうか。
また、既に発展している地域から、「自由」によって解放された地域に
安い製品が流入し、その地域の経済を破壊し、
「契約自由」の名において不利な契約を結ばされる事態が発生し得るだろう。
それは結局、ある押し込められた範囲の中での自由であり、
押し込める側の利得のために「自由」が利用されている、ということではないか?
様々な疑問はあるのだが、
少なくとも現在の日本で、様々な制度や価値観を見直す上で、
そしてこの主張がまず弱者を「自己責任」の名において抹殺するために
利用する人々の道具に堕さないように監視しておけば、
有効な「アンチテーゼ」ではなかろうか、と感じる。
# 筆者が「生存権実現の責務を国家に負わせる」のは、
若干、「リバタリアン」の主張としては違和感がある。
何が生存権か、の決定を国家が担うことに対する危惧。
この本は、約10年前に書かれた本ではあるが、
巻末の参考文献も充実しており、
「リバタリアニズム」の全体像や価値観を把握する上で良い手引書かな、と思う。
「リバタリアニズム入門」という副題がついている。
最初に「リバタリアニズム」を
「個人的自由」「経済的自由」をそれぞれどのように尊重するか、という
座標軸に位置付ける。
その中で「リベラル」「保守派」「権威主義」との相違を示している。
これはざっくりした位置付けだと思うが、全体像を把握する上では有効。
本来「リベラル」というのが「リバタリアニズム」とイコールなのだろうが、
「リベラル」という言葉に手垢が付いている、という問題意識があるのだろう。
また、現在の様々な主張(橋下、慎太郎、TPOへの賛否、等)が
現状をどのように捉え、どのような社会を目指そうとしているのか、を理解する上で、
2種類の自由を尊重する/しないの組み合わせは
一つの視点になるだろう、と感じた。
その後、各章で「どのような権利を認めるか」及び
国家・制度・社会といった面での多くのリバタリアンの考え方、
一部は筆者の意見を紹介していく。
筆者の紹介する「リバタリアニズム」の自由や個人の選択重視・
国家機能を極小化する主張は、極論と言えば極論かも知れないが、
全体としては、あまり違和感を持たなかった。
特に「日の丸・君が代」を強制して「国民」意識を持たせつつ、
「自己責任」を強調して国による保障を切り捨てていく流れに比べれば、
遥かに首尾一貫していると思う。
# 「リバタリアニズム」の中でも、
国家の代わりに家庭や社会が強制力を発揮し、
個人の抑圧を肯定する主張もあるのだろうが。
ただ、現実に可能か、それは良い状況か、というと疑問はある。
煎じ詰めれば、それは個人が本当に「正しい」選択をできるのか、
という感覚かも知れない。
リバタリアニズムの発想では「正しい」選択、なんてものはなく、
各個人が刹那刹那で良いと考える選択が正しい選択である、ということかも知れないが、
将来の自己の権利や自由を侵害するような選択を
ある時点でしてしまう、というのは普通にある話。
それを「自己責任」と言ってしまうのは可能だと思うが、
果たして人間はそれに耐えられるほど強い存在なのかな、と感じる。
また、様々な資源(情報・金・時間など)が限られた中で
「自由に選択したから」とその結果責任を本人に負わせるのが、
果たして妥当であり、納得を得られるものなのかどうか。
もう一つは、複数の制度が存在する状況で、
「リバタリアニズム」は競争優位な思想かどうか、ということ。
因襲に捉われ、発展の足枷がある際にそれを外す時、
いきなり「自由」というのは弱い道具ではないだろうか。
また、既に発展している地域から、「自由」によって解放された地域に
安い製品が流入し、その地域の経済を破壊し、
「契約自由」の名において不利な契約を結ばされる事態が発生し得るだろう。
それは結局、ある押し込められた範囲の中での自由であり、
押し込める側の利得のために「自由」が利用されている、ということではないか?
様々な疑問はあるのだが、
少なくとも現在の日本で、様々な制度や価値観を見直す上で、
そしてこの主張がまず弱者を「自己責任」の名において抹殺するために
利用する人々の道具に堕さないように監視しておけば、
有効な「アンチテーゼ」ではなかろうか、と感じる。
# 筆者が「生存権実現の責務を国家に負わせる」のは、
若干、「リバタリアン」の主張としては違和感がある。
何が生存権か、の決定を国家が担うことに対する危惧。
この本は、約10年前に書かれた本ではあるが、
巻末の参考文献も充実しており、
「リバタリアニズム」の全体像や価値観を把握する上で良い手引書かな、と思う。