朝寝-昼酒-夜遊

日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

文楽劇場「生写朝顔話」

2024年07月29日 18時02分59秒 | 歌舞伎・文楽
昨日は久し振りに文楽劇場の「夏休み文楽特別公演」へ。

コロナ前以来か、と思ったら、3年前に簑助師の引退公演に行っていた。それでも3年ぶりではある。
以前は年数回通っていたこともあるが、代替わりしたことやチケット代が上がっていることもあり、
ご無沙汰になってしまっている。

昔は、夏休み公演は三部制であり、その分チケットが割高になるので行っていなかったのだが、
もう内容が良ければいいや、ということで寄ってみた。

第二部の「生写朝顔話」。
自分のブログを見ていると、15年前に行っているようだ。
今回は中央通路の一等席。
足が伸ばせるので良いと思っていたのだが、
同じことを考える人は多く、左右も人が座っていて少し窮屈(全体には、日曜にも関わらず3割程度の入りなのに)。
1時半~ほぼ5時半で、間に10分休憩×2回なのでさすがにしんどい。

以下、つらつらと感じたことを。
「宇治川蛍狩の段」
・最初の見初の場面。
 深雪に絡む酔っ払った浪人を阿曾次郎が助ける、という、まあベタなところ。
・太夫がなあ。
 あまり腹から出ておらず、口先で弄っている感じ。住太夫だったら激怒していそう。
・人形は何とも思わなかった。印象にない。

「明石浦船別れの段」
・せっかく二人が会えたのに、また離れてしまう、という場面。
 これもベタではある。
・ここも浄瑠璃が引っ掛かる。
 音程がイマイチ安定しない感じ。
・人形には何も感じず。

「浜松小屋の段」
・合三味線が清治なのだが、最初大夫と合っていないように感じてしまった。
 何か、自分の調子で進めてしまっている感じ。
 後になると違和感はなくなったのだが。
・この場面(特に後)、今まで何とも思わなかったのだが、よく出来ているところと感じた。
 浅香(深雪の乳母)と女衒との立ち回りはよく分からないのだが。

「嶋田宿笑い薬の段」
・有名なチャリ場。
 織太夫が全体にきちっと締まっていない感じで、「笑う」場面の緩和がイマイチ効いていない印象。
 (客が少ないせいでもあるのだが)なかなかウケに繋がらなかった。
 藤蔵は相変わらず声が多過ぎでうっとうしい。好きではない。
・勘十郎が楽しんでやっている。
 別格の印象。

「宿屋の段」
・ここがメインのところ。良く出来た場面と思う。
 「受ける」側の芝居を気にしてしまう私は、
 駒沢と名乗っている阿曾次郎が話している場面では朝顔(深雪)の反応を見てしまい、
 朝顔のクドキの場面では駒沢の反応を見てしまっていたのだが、
 駒沢の声を聞いた際の朝顔については、
 もう少し「この人は、もしかして?」という反応を見せた方が良いような気がする。
・錣太夫は最初悪声と感じていたが、歌の場面は、まあ悪くなかった。
 # 錣太夫って、調べたら前名「津駒太夫」なんやね。津太夫33回忌で襲名しているのか…。 
・徳右衛門がやけにそのあたりの商人という感じで作られているのだが、
 この人、嶋田宿でけっこう大きな宿屋をやっている人、という設定だよな?
 萩の祐仙をやり込める場面もあるので、もう少し格があった方が良いような気がした。
 後の転換を考えると、ここでは下げておいた方が良い、ということなのかしら。

「大井川の段」
・初っ端は「軒付け」でお馴染みの節。
・設定は、うーん、近代的な価値観では納得しづらいなあ。
 「甲子の年」だからって、いくら恩人の娘とは言え、
 腹を切って助けるのはさすがに違和感がある。
 そのあたり、同じ前近代的な設定でも
 「寺子屋」や「鮨屋」の方がまだ分かるのだが。
・人形は悪くなかった。

文楽劇場40周年らしいのだが、客の入りは相変わらず良くない。
まあ、だいたい夏休み公演は(第一部は兎も角)そんなものではあるのだろうけど。
飛び込みで第三部の「油店の段」だけ、また覗こうかな。
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咲太夫死去

2024年02月19日 09時36分17秒 | 歌舞伎・文楽
人間国宝で人形浄瑠璃文楽太夫の豊竹咲太夫さん死去 79歳 _ NHK _ 訃報

1月末に咲太夫が亡くなったことを、先週くらいに知った。
文楽自体への私の関心が低下しているせいでもあるが、
根本的に言えば咲太夫に「興味がない」。

基本的に住太夫を中心に見てきており、嶋太夫はそれはそれで好きだったけど、
綱太夫は好きではない。
という中で咲太夫って、嫌いではないけど全く好きでもない人。
千歳の方がまだ面白いと思っていた。
長い間見ていない(住太夫の引退興行が最後?)から、
良くなっていたのかも知れないが。
声があまり通らず、何言っているかよく分からないオネオネしている人、という印象なんだよなあ…。

# そもそもが津太夫好きで越路はそこまでではない、という人間なので、仕方ないのではあるが。
4世竹本津大夫の熱演 野澤勝太郎 盛綱陣屋の一部 文楽

今見たら「クサい」んだけど、こういう芸もあって良いでしょう?(笑)

最近の大夫さんは、全く追いかけられていないが、
「団菊じじい」になるのも良くないので、
また文楽劇場に足を運んでみるかな…。
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令和3年4月文楽公演第二部 簑助師の引退公演(国姓爺合戦)

2021年04月24日 17時39分32秒 | 歌舞伎・文楽
昨日は久し振りに文楽劇場へ。
いつ以来だろう…住大夫引退公演以来か?とすると、ほぼ7年ぶり。

元々、久し振りに本公演にかかる「傾城阿波の鳴門」を見るつもりだった。
ところが簑助師が本公演で引退する、と急遽発表された。
文楽人間国宝吉田簑助さん引退へ かれんな芸風で81年:朝日新聞デジタル
「国姓爺合戦」って別に好きな演目じゃない(ってか、よく分からん)ので、見るつもりはなかったのだが、
長年見てきた簑助師の最後、とういことで、これも合わせて見ようと決めた。

そうこうする内に、月末。
このままでは行きそびれそうだったので、電話で空席状況を確認した上で、
金曜午後(勝手に休みにして)日本橋へ。

「落語」「漫才」「歌舞伎」「文楽」といった中で、
私が最初に生で見ているのは、恐らく「文楽」だと思う。
亡くなった祖母が好きだったのか何かで、まだ文楽劇場が出来る前の
朝日座に連れていかれていたりした。
勿論はっきり覚えている訳ではないけど、文楽劇場が出来た頃とか、
簑助師のお姫様の人形と一体になった動きや表情というのはやはり綺麗で、
玉男、勘十郎、文雀といった「お爺さん」とは異なる印象を持っていた。
# 大夫で言えば、子どもであった当時、
 越路大夫は声が小さく良さが分からず、
 豪快な津大夫であり、当時文字大夫だった住大夫であり、
 艶のある嶋大夫が好き、というところ。
 源大夫で亡くなった織大夫は、当時から最後まで特に好きでもなく。

その後、簑助師は脳溢血で倒れたりした。
私が見ていたのは、ほとんどその前なのだが、
復帰後は全盛期まで回復していなかったのでは、と感じている。
もっとも人形遣いは本人だけで善し悪しが決まるものではなく、
例えば左を簑太郎(現勘十郎)師が遣えば話が違ってくるかも知れないし。

三部制の第二部。
新型コロナウイルス対策で、席もかなり空けて販売されている。

「国姓爺合戦」というのは近松作で当時かなりヒットした、というが、
正直、よく分からない芝居。
舞台装置や曲も少し変わっており、異国情緒が面白い、というところはあると思ったが。

中国において、明が異民族の韃靼(清を暗示)によって滅ぼされた。
明の遺臣が平戸に逃れ「老一館」と名乗っている。
この「老一館」が、逃れる前に残してきた娘が「錦祥女」であり、
今は韃靼の味方をする「甘輝」という武将の妻になっている。
「老一館」が平戸に逃れた後にできた子が「和藤内」という豪傑。
この「老一館」とその妻(和藤内の母)、そして「和藤内」が中国に渡り、
「甘輝」を味方に付けて韃靼を討つ、という話。

簑助はこの「錦祥女」の役。
ただずっとではなく、「楼門の段」という場面だけで
後の段は他の人形遣いに代わる形。

で、「楼門の段」。
楼門に幕がかかっており、それが空いて簑助が遣う錦祥女が現れる。
引退する役者は最後、楼門の上で体は動かさず風格だけ見せて終わるのか、と
「楼門五三桐」の五右衛門を連想しつつ思った。
言わば「クドキ」の風を見せる。そこは錦祥女の父に対する思い、
甘輝の妻という立場との相剋もあり、良かった。
ただ、もう動き続けるのは難しいのだろうな…という感慨もありつつ。

芝居そのものは、うーん、やはり好きにはなれない。
和藤内と甘輝が二人で並ぶ場面は良いけど、
和藤内の母と錦祥女の二人がそのための犠牲になっている絵面、設定が、
私には少しグロテスクに感じられる。
また芝居全体の「日本の」云々というのが鼻につく。
まあ、この芝居が出来た時代を考えれば良いと考えるべきなのかも知れないが、
私はダメ。正直、付いていけないなあ。

大夫についても全体に「この人が凄い」と感じるほどではなかった。
まあ、きちんとやっていた、という印象。
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坂田藤十郎死去

2020年11月18日 10時27分03秒 | 歌舞伎・文楽
坂田藤十郎さん死去、88歳 人間国宝の歌舞伎俳優:朝日新聞デジタル

コロナの影響もあってなかなか歌舞伎も見に行っていないが、
そんな中、坂田藤十郎が亡くなった。
私などは「坂田藤十郎」より、前名の「鴈治郎」の印象が強い。
私よりもっと上の世代の方は「扇雀」のイメージが強いだろう。

# 私にとって「藤十郎」というと、澤村藤十郎のイメージ。
 病気療養中とはいえ紀伊國屋がいるのに、「藤十郎」を襲名するのはどうか、と
 今でも思っている。勿論了承は得ていると思うけど、それでも。
 だから「坂田藤十郎」と書いている。

初めて見たのは20年以上前、南座の顔見世で、確か「忠臣蔵」九段目ではないか、と思う。
お石だったかなあ。
仁左衛門(当時孝夫)と勘九郎(当時)が、由良之助と力弥だったような気がする。
この顔合わせは豪華だよなあ。

鴈治郎はそれからも何度か見たけど、特に好きな役者ではなかった。
非常に理知的に組み立てる人、という印象なのだが、
一番は声が好みじゃない。唾が混じるような感じで快くない。
まあ、そのあたりのハンデを近代的・理性的に組み立てることで克服した、
ということかも知れないけど。
最後の方はその「組み立てている」のが目立たなくなった、という記憶もある。

個人的に好きではないけど、
上方の歌舞伎は、この人がいなければ今の隆盛はなかったのだろう、とは思う。

合掌。
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前進座創立85周年記念公演「たいこどんどん」

2016年10月02日 20時35分07秒 | 歌舞伎・文楽
知り合いのお母様にチケットを頂いて
国立文楽劇場の前進座公演を見に行った。

劇団創立85周年記念公演で
井上ひさし作の「たいこどんどん」。

2016年 『たいこどんどん』 前進座

この芝居を見るのは初めて。
前進座自体、数年前の正月に誰かの襲名披露興行で南座に行って以来。
現代劇は初めてではなかろうか。

案内を見ると、25分の休憩前も後も60分から75分くらいで、
割とコンパクトな芝居。

客席は60代以上の女性が大多数で、
40代の私なんて一番若いか?という位。
しかし(招待券も多いのかも知れないが)けっこう埋まっており、
日本のショウビジネスは金も暇もある中高齢の女性(有体に言えば「おばちゃん」)に
支えられているのだな、と痛感させられる風景だった。
文楽の本公演だと、なかなかここまで埋まらないんじゃないのか、と思ったり。

全体に「和風ミュージカル」といった趣。

序幕は江戸の日本橋で、
傘を持っての群舞から始まる。
このあたり、松竹歌舞伎と比べてしまうのだが、
全体に体の線がきっちり決まらない、腰が座らない人が多いなあ、という印象。
どんな動きをしても、江戸町人を演じる上では「着物を着ている」のが前提であり、
腰がきちんと定まった上で身をこなす、というものだと思っているのだが、
そのあたりの鍛錬がきちんとなされていない、
或いは舞踊をきちんと習っていないのでは、という印象。
この群舞は最後の場面と対になってくるので、
もしかすると意図的に崩しているのかも知れないが。

# このあたり、猿之助一座や勘九郎達がやったらどうなるか?と少し思った。

それは幇間役(中嶋宏太郎)も同じ印象。
それに比べると若旦那役の早瀬栄之丞は、基礎は比較的安定しており、
如何にも江戸の若旦那、という印象を受けた。

ストーリーとしては江戸品川~釜石~仙台、遠野、新潟等を
若旦那と幇間が経巡る話。
その間幇間が裏切られて釜石の鉱山に叩き売られたり、
若旦那が女遊びの挙句追い出されたり病気を貰ったり、と苦労していく感じ。

井上ひさしの台本らしく、東北弁(それも地域地域によって言葉が異なる)で台詞は作られている。
大らかな猥雑さ(けっこうダイレクトな表現)もある。
歌舞伎と違って女優なので、ちと生々しくしんどいところもある。
また、様々な言い立て・羅列がちりばめられ、
この辺りも井上ひさしらしい。

時代背景としては黒船来航から明治維新くらいの間の物語で、
品川での「黒船を見ながら酒を飲む」あたりの設定は
江戸の人間の、上がバタバタしようが町民はそれを生かす、
或いは茶化す「逞しさ」のようなものが出ていたと思う。
それは最後の「江戸が東京と変わろうが、江戸っ子は江戸っ子」という台詞に
繋がってくるものなのだろう、と思う。

休憩後鉱山の場面は、労働者の苦難などが色濃く出ており、
このあたりは如何にも前進座なのかな。
或いは最後の群舞での
「何事も新しいのが良い」「富国強兵」などの言い立てには
昨今の「変化」に重きを置く安倍・橋下的なものに対する
アンチテーゼに繋がる(無論、初演時からあったのだろうけど)を感じたりした。

最後はカーテンコール、受付でのお見送り。

どうしても松竹の歌舞伎と比較すると、
芝居としては鍛錬不足、薄さが気になってしまう。
ただ例えば、最後のお見送りなんてのは歌舞伎では(今でも)ないだろうし、
その辺りは大衆演劇に近く、でも大衆演劇よりは芝居としてのコク・厚みを持っている、
というあたりが「前進座」の特徴なのかな、という気がした。
中途半端と言えば中途半端だし、
でもバランスが良いと言えばそうなのかも知れない。

全体では袖ケ浦・おとき・お熊という
若旦那と絡む3役を演じた(過去の演者を見ても、同じ役者が演じるのが多いみたいだけど)
北澤知奈美という人の印象が強かった。
もう少しこの3役の演じ分けを強めた方が良いと思うが、
悪女の色合いがよく出ていたと思う。
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住大夫引退公演~「菅原伝授手習鑑」第二部~

2014年04月11日 12時27分53秒 | 歌舞伎・文楽


月曜、文楽劇場に行ってきた。

竹本住大夫の引退公演。

夜の部は二等は満席。
一等も土日は満席、ということで、平日に行くことにした。
そんなに良い席も残っていなかったが、
長い間見てきた住大夫の引退公演ということもあり。


三段目は「車曳の段」「茶筅酒の段」「喧嘩の段」「訴訟の段」と続き、
切が引退狂言の「桜丸切腹の段」。

切に至るまででは「喧嘩」の咲甫大夫、「訴訟」の文字久大夫が意外に良かった。
咲甫大夫は何となく、声などが咲大夫に似ている印象。
また、文字久大夫は以前のNHKの番組での住大夫にさんざん叱られているイメージや
その後聞いた際もあまり良くない印象があったのだが、
この日は言葉の粒立ちも声も良かった。
師匠の引退、ということで色々責任感などがあるのか、
というのは考え過ぎなのかも知れないが。

人形はやはり勘十郎が良い印象。
支える左・足も良いのだろう。

そして切の「桜丸切腹の段」。
床が回って住大夫が出てくる。
語り始める前に場所をずらすのだが、
それを手伝ってもらうあたり、何とも言えない感慨、淋しさを感じた。

衰えているとは言え詞章の粒立ち、
台詞に籠められた情愛、それが語尾の一文字一文字まで籠もっている。
このあたりは今でも他の大夫とレベルが全く違う、と
個人的には感じる。

ただ、聞いていて辛いのも事実。
特に台詞ではなく地で歌わなければならない部分は
音の高さが安定しない、或いは声が出ないのがしんどい。
それは聞く側よりも、恐らく住大夫本人が辛いだろう。
芸は成熟するが、それを支える肉体は衰えていく。
脳溢血から倒れて復帰し、
いつしか一つ一つの演目に別れを告げるように語りつつあったように感じていたのだが、
それも遂に終わりか、という感慨がある。

人形は蓑助の桜丸、文雀の八重。
住大夫の床と合わせて、少し前の切場の顔ぶれではあるが、
うーん、やはり蓑助も文雀も衰えている、という印象。
ただそれは二人の人間国宝の問題ではなく、
左や足の問題なのかも知れないし、
床の義太夫や三味線が充分に支えられていないからなのかも知れない。

腹に刀を突き立てるタイミングが、
体の動き、手の動きが見えづらく、よく分からなかった。

四段目は「天拝山の段」から「寺入りの段」「寺子屋の段」と続く。
「天拝山の段」は別に大した段ではない。
詞章からして民謡を入れたり、
「東風吹かば」や「梅は飛び」の歌を組み込むあたりが趣向だろう。
落語好きとしては「天角地眼」の牛ほめ文句があるのが興味深い。
「一石六斗二升八合」の洒落にもなっているのかねえ。

「寺入りの段」が付く方が、後の「寺子屋の段」は格段に分かりやすい。
若干「寺入りの段」での親子の思い入れが深過ぎる印象はあった。

「寺子屋の段」は嶋大夫。
うーん。昔から唸る人ではあるが、
それが良くない方向に行っているように思う。
だいたい、見台にしがみついて身をよじらせて語れば、
その分声は前に通らない訳で。
あまり心地よく聞くことはできなかった。

ここでも勘十郎、
あと源蔵の和生が良かった。


住大夫の引退公演ということで、
「ではその後は?」が気になる訳だが、
現時点で誰がその後を埋められるか、というと、埋められる訳はない。
そして床にしても人形にしても、
将来埋めてくれる可能性のある人が存在すると思う。
ただ、最終的に文楽が今後継続・発展していくか、というと疑問。
文楽は一人で出来るものではない。
左遣いや足遣いのレベルが向上していくのか、というあたりには
かなり大きな不安を感じた。
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通し狂言「伊賀越道中双六」第二部

2013年11月18日 17時29分54秒 | 歌舞伎・文楽
先々週に引き続き、昨日は文楽劇場へ。
「伊賀越道中双六」の第二部ということで、
「藤川新関の段」から「伊賀上野敵討の段」まで。

日曜でも夜はあまり入りが良くないなあ。
6割程度、という感じ。


「藤川新関の段(引抜き 寿柱立万歳)」

藤川に設けられた新関での物語。
志津馬と、股五郎の家来である助平への
茶店の娘お袖の対応の違いがある。

助平が遠眼鏡を覗いて、馴染みの遊女に嫉妬したり、
三河万歳が通りかかるのを見る。
その「覗いている」三河万歳を実際に舞台に登場させて踊らせる、
というのは芝居として面白いな。

義太夫、三味線はあまり印象に残っていない。


「竹藪の段」

股五郎と、御前試合で政右エ門に敗れた桜田林左衛門が通りかかる。
その後、入相の鐘で関が閉ざされた後に政右エ門も辿り着く。
追いつくために政右エ門は近くの竹藪を抜けて関所を破り、
役人に追いかけられることになる。

桜田林左衛門が股五郎の伯父で、
今は股五郎の警護をしている、というところで、
御前試合の遺恨も絡んでくるんだな。
ごく短い段であり、以降の話の設定を仕込んでいる場面、という印象。

浄瑠璃は靖大夫で、
声も出ており、活気があり、悪くなかった。


「岡崎の段」

第二部で一番重い段かな。
娘お袖を縁付ける、と言ってしまったために股五郎側になっている幸兵衛と、
その娘に惚れられ、持っていた手紙に合わせるために股五郎と名乗る志津馬、
「唐木政右エ門」と名乗れず、股五郎の行方を探るために股五郎の味方になろうとする政右エ門。

その状況で、お谷が政右エ門との間の子を抱いてやってくる。
バレては困るので政右エ門はお谷を追い出すが、子どもは幸兵衛の女房が助ける。
ここで女房お谷のクドキ。

その子どもの守り袋に「政右エ門の子」とあることから
幸兵衛と女房は「良い人質が出来た」と喜ぶが、
政右エ門は「人質をとるのは卑怯だ」と言って(実の子を)殺してしまう。
そこにお谷がやって来る、といった話。

「敵討のために全てを犠牲にする」は一つのパターンだが、
妻や子どもを犠牲にするこの政右エ門のあり方はさすがに行き過ぎでは、と感じてしまう。

嶋大夫は昔より声が出づらくなっており、
その代わりに深みが出ているか、と言われるとあまり感じられなかった。
千歳大夫は、以前に比べて感情が浮かび上がるようになっていたが、
まあ、満足とは言えないな。

人形も悪くはなかったが、良いというほどでもない。
お袖は文雀だが、やはり最初上半身の動きの大きさが気になった。
後の方ではさほど大きく使っておらず、
それで充分だと思うのだが。
勘十郎の幸兵衛はまあまあ。
第一部の平作の方が良かったが。


「伏見北国屋の段」

眼病を患っている志津馬と瀬川の隣の部屋に、林左衛門も逗留している。
志津馬の家来孫八・孫六が計略を仕組み、
林左衛門から股五郎の行き場を聞き出そうとする。

林左衛門が自分の計略が当たったと思い、
調子に乗って色々話し、志津馬を罵るあたり、
御前試合で勝ったと思った時と同じ言動だなあ。
同じ失敗をするあたりはリアルなのかも知れない。

ここに十兵衛が出てきて志津馬を妨げようとし、
志津馬に斬られて股五郎の行き先を言ってしまった罪滅ぼしをしようとする。
政右エ門もその十兵衛の漢気を受けて、
すぐに股五郎を追いかけようとはしない。
まあ、よく出来た話だと思う。

浄瑠璃は英大夫。
人形とも合い、登場人物の台詞に聞こえていた。
よく纏まっていた、という印象。


「伊賀上野敵討の段」

という訳で、最後は付け足しのようなもの。
「敵討をしない訳にはいかないでしょう」という位置づけで見ればよいと思う。


20時50分頃終演。
第一部の最後、住大夫を見終えた時のような充実感、満足感はなかったなあ。
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通し狂言「伊賀越道中双六」第一部

2013年11月07日 20時04分45秒 | 歌舞伎・文楽
月曜は文楽劇場へ。

今月は「伊賀越道中双六」の通しで、
第一部が大序から所謂「沼津」まで、
第二部がその後最後の敵討まで。
1日で全部見るのはちとしんどいので、
まずは第一部を見てきた。

10時半開演で16時終演予定、という長丁場。
振替休日だったが、7割程度の入り。


「大序(鶴が岡の段)」

物語の発端。
酒にだらしない主人公和田志津馬、
その馴染である傾城瀬川、
瀬川を連れて来て仲間のようなふりをして、
和田家の家宝である正宗を取り上げようとする沢井股五郎、といった人物が登場。
和田家の家臣の佐々木丹右衛門が
酒で酔い潰れた志津馬に代わって裃を付けて勅使を迎える。
後の段でこの丹右衛門が軸になってくることが、このあたりで表現されている印象。

人形は特に印象がない。
大序らしく簾内で語っていたが、
活気があって全体に良かった。


「和田行家屋敷の段」

最初、腰元連中の噂話。
状況の説明なのだが、そこに非常に下卑た話題が入ってくるところが
観客の興味を引く設定になっていて面白い。
「鼠の耳」を思い出した。

その後和田行家の娘(志津馬の姉)お谷が登場。
唐木政右エ門と駆け落ちした、ということで勘当されている状態なのだが、
行家の後妻である柴垣に取り持ってもらうために日参している。
このあたりは後の「唐木政右エ門屋敷の段」に繋がってくる。

ここに沢井股五郎が入って来て、様々な話を持ち掛けて正宗を取ろうとするが、
上手くいかず、結局行家を斬ることになる。

ここも人形の印象はあまりない。
浄瑠璃は前半は咲寿大夫、後半は松香大夫。
どちらもよく声も出ており、聞き取りやすくて良かった。
将来、楽しみ。


「円覚寺の段」

沢井股五郎が一族の城五郎に匿われている。
人質交換しつつ、城五郎方は後で股五郎を取り返そうとしている。
丹右衛門もそれを分かっており、いったん城五郎に本物の正宗を見せ、
それを股五郎の母鳴見が奪い取って自害し、
次に城五郎に渡す際には偽物の正宗に取り換えて渡す、という凝った細工。
ここで息子の非道を愧じて鳴見が自害するところ、
何とか志津馬が放蕩をやめ、父行家の敵を討つように改心させたいために
丹右衛門が城五郎たちの策略が分かっていながらそこに乗っかって犠牲になるところ、
さすがにちと無茶な芝居だな、と思わなくもない。

今後メインになってくる十兵衛が城五郎と繋がっていること、
薬に入った印籠を受け取ること、といったあたりが仕込まれているんだな。

ここでは何と言っても丹右衛門が良い役。
城五郎との掛け合う場面も、
玉志の人形、靖大夫の浄瑠璃とも良かった。
文字久大夫はイマイチだなあ。
藤蔵に不満がある(声出し過ぎ)は言うまでもなく。


「唐木政右衛門屋敷の段」

お谷と駆け落ちした、剣術の名手である政右エ門。
しかしこれが、身重のお谷に去り状を渡して新たに嫁を貰おうとする、という場面。
お谷を女中扱いしたり、「仕事ができない」と罵ったりした挙句、
最後に種明かしをする。
個人的にはなかなかよく出来た設定・ドンデンで、
政右衛門にしても忠義な家来武助にしても見せ場のある、良い役だと思う。
もっと舞台にかかっても良い場面だろう。
カシラは何だろう、と久し振りに気に留めて見てしまった。
武助は検非違使、政右エ門は文七なんだな。
如何にも、の役ではある。

勿論、そこまでショックを与えたらお谷が本当に流産してしまうのでは、とか、
理不尽なところはあるのだけど。

人形では武助の玉佳が良かった。
床は希大夫、睦大夫には特に不満はないが、咲太夫は良いとは思えんなあ。
前聞いたときに比べて聞き取りやすかったし、
最後の(次の段につながる)「切腹して欲しい」と
政右エ門が自分を推挙してくれた侍に頼み込むところの気持ちの出し方は悪くなかったけど。
あと、三味線の燕三も声を出し過ぎと思った。


「誉田家大広間の段」

政右エ門と元々の剣術指南役の御前試合。
政右エ門は敵討に参加するためには剣術指南役になれないから、とわざと負ける。
しかしわざと負けたことを見破った殿様が政右エ門に指南役を申し渡し、
さらに槍で突きかかって、といった話。
このお殿様も良い役だな。

この場面は人形も、床も三味線もあまり印象に残っていない。
特に違和感はなかった。


「沼津里の段」

大きく変わって沼津の場面。
百姓平作と十兵衛の絡み。
怪我をした平作に、十兵衛は城五郎から預かった
さらに途中で娘お米と会い、一緒にあばら家に帰る。
ここで十兵衛は平作・お米が自分の父・妹と気付き、
何とか援助したいとお米に言い寄ったりする、といった場面。

勘十郎の平作が良い。
左、足ともよく合って、疲れた老人の動きをよく表現していた。
床は津駒大夫だが、うーん、平作が乞食のように聞こえた。
確かに貧乏はしているのだが、別にそこまで卑屈になっている訳ではないのでは?
微妙なのだが、ちと違和感があった。
三味線は寛治、ツレが寛太郎。
やはり寛治は素晴らしい。特に強く表現しようとしたり声を出して目立とうとしたりせず、
浄瑠璃や人形をスムーズに運んでいく印象。


「平作内の段」

お米が寝ている十兵衛から薬を盗もうと忍ぶ。
それが見つかるが、十兵衛は城五郎・股五郎への義理から薬を渡せない。
結局「寄進」と称してお金を包み、
さらに印籠と自分が平作の息子だという証になる守り袋をわざと忘れて
出立していく。

ここはお米が悩み、忍び、取り押さえられてクドキ、といったところがメインかな。
お米は蓑助なのだが、不満。
倒れた後、だと思うのだが、細かい表現に自信がないのか、
全体に首の動きが大きく、クサくなっているように感じる。
女形は心の動きよりも首を含めて体は小さく動かし、
逆に心の大きな動きを表現する、というのが重要だと思うのだが、
首や上半身の動きが大き過ぎるので、心の動きが小さく見えて、感情移入できない。

呂勢大夫も、やはり平作が乞食に聞こえる。
三味線は清治で、これも邪魔にならない。
後から振り返ると軸になっていたんだな、という印象。

最後に平作が十兵衛を追うのだが、
ここで既に、自分は死ぬがその代わりに
十兵衛に股五郎の落ち行く先を言わせようとしている、と分かる台詞回しだった。
まあ、筋を知っているから分かる、ということかも知れないが。


「千本松原の段」

ということで、平作と十兵衛の掛け合い。
最後は平作が十兵衛の刀を腹に突き立て、
「死んでいく者にならば言えるだろう」と十兵衛に迫り、
十兵衛が横で聞いているお米と孫八にも聞かせる、という場面。

住大夫が素晴らしい。
当然、昔に比べて声が張れる訳ではないし、声量も落ちている。
しかし、それぞれの人物の心理を「描写」する訳でもないのに、
心理や世界が見えてくる。

このあたり、「科白」と「地」が渾然となっているんだな。
科白も登場人物が一人の独立した個人として喋っているのではなく、
節の一部として語られている。
地の部分も純粋に客観的な情景描写でなく、
そこに観客と寄り添う大夫の目から見た、
或いは義太夫節が表現しようとしている情景が見えてくる。
十兵衛の独白、平作の独白など、
住大夫が「成りきっている」のとも違う、
何だろう、義太夫節やその世界が住大夫の身体・ハラ・声帯を借りて湧き出てくるような感じ。

これに対して平作の勘十郎はそこそこ渡り合い、錦糸は調和していたと思う。
十兵衛の和生は、やや付いていけていなかった印象。


終演後、浄瑠璃の世界から抜けられないまま、ぼんやりと日本橋から鶴橋まで歩いて帰った。
芝居の後で、これはこれで悪くない。
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通し狂言「夏祭浪花鑑」

2013年10月28日 09時06分05秒 | 歌舞伎・文楽
昨日は松竹座へ。
夜の部は「夏祭浪花鑑」の通し上演。
恐らく歌舞伎・文楽通して「長町裏」以外を見るのは初めてではないかな。


序幕「お鯛茶屋の場」。
芝居としては別に特に見せ場もないところ。
「お鯛茶屋」に掛けた地口が幾つか出ているのは面白い。
また、芝居をした乞食の一人はお梶から着物を受け取るのだが、
これが次の場では「一寸徳兵衛」として現れ、
団七九郎兵衛と兄弟の契りを交わすことになっていく仕込みになっている。

磯之丞は薪車で、遊蕩に耽る若旦那、というのは二枚目のこの人の持ち役なのだろうが、
もう少し「侍の家の者」の動きがベースにあっても良いのでは、と思った。
単になよなよした人間であり、町人の若旦那の色が強い。
お梶は壱太郎。
やはりまだ、女形の動き、殊に足の捌きが身に付いていない印象。
ただ以前見た時よりも違和感が小さくはなっていた。


「住吉鳥居前の場」。
釈放された団七九郎兵衛が髭面であったり、
糸に乗ってチャリがかった動きをする、
或いは三婦と喜び合う場面を見せる、といったあたりが
上方的な演出なのかな。
正面の床屋に入った団七が、男前になって出てきて
琴浦に絡む佐賀右衛門を懲らしめるあたりの落差が面白い。

その後は一寸徳兵衛と団七の立て引きがあり、
お梶が間に入って袖を交換して兄弟分になる流れ。

団七九郎兵衛は愛之助で、
このあたりのチャリや立て引き、
一寸徳兵衛との押し引きの駆け引きも面白い。
一寸徳兵衛は亀鶴で、きちんと意識して見るのは初めてかも知れないが、良い二枚目だと思った。
口調がさっぱりしているのが良い。


二幕目「内本町道具屋の場」。
手代となって店に入り込んでいる磯之丞を
出入りの仲買(弥市って名前が「金明竹」みたい)、番頭、
買おうとする侍が寄ってたかって金銭を騙り取ろうとする。
少しくどいし、あまり上演される機会もないだろうが、
ここで侍に化けた舅義平次が出てくるのは、
後の「長町裏」に繋がってくる伏線になっている。

猿弥の番頭伝八が可笑しかった。
磯之丞を一方的にライバル視して娘さんと一緒になりたい中年男の嫌らしさが出ていた。
キセルが熱過ぎたらしく、後でもいろいろ言ってウケを取っていた。
周りがもう少し拾ってあげられれば尚良かったのだろう。
娘は新悟。
おぼこいと言えばおぼこいが、少し声が細過ぎる印象。


「横堀番小屋の場」。

仲買、番頭、侍が集まって金の分け前を決めるあたり、
義平次の金に汚い性格が良く出ていて、これも「長町裏」に繋がる伏線。
だんまりはよく分からなかった。


三幕目「釣舟三婦内の場」。

この三幕目は背景に囃子が流れているのだが、
祝いものの獅子(中には敵役の侍の手下が入っている)が入って来て
匿われている磯之丞と琴浦を見つける、
鯵を焼いている火箸を顔に当ててお辰が侠気を見せる、
そして当然、「長町裏」では囃子の中「泥場」になる、といった形で
「祭」の小道具が一貫して使われている。
囃子の速度や音量も変化を付けられている訳で、
このあたりが面白い芝居。

お辰は吉弥。
この場しか出ないがかなり重い役だと思う。
きっちりやってはいるが、
個人的には少し説明過多な印象。
三婦に断られて「お前の顔に色気があるから」と言われた後の
自分の顔に手を当てる、「この人は何を言っているんだろう」と三婦を見る、
火箸を見る、これで顔を焼けば良いだろう、しかし躊躇う、
結果焼いて侠気を見せる、といった心の動きを、
身体の動き、目線などで表現し過ぎているように感じた。

三婦は翫雀で、今までの場ではそうでもなかったのだが、
この場に来ると「粗さ」というか、心理を程よく表現できない「拙さ」が気になった。
三婦は単に無理難題を言っているのではなく、
そこには「ずっと匿ってきた」「頼まれてきた」或いは「自分も世話になっている」といった
背景があるはずなのだが、そのあたりの蓄積はあまり感じられなかった。

敵役の侍の手下が入ってきて
三婦が数珠を切って久し振りに喧嘩沙汰に戻るところは悪くなかった。
ただもう少し、「仏」の部分が「仏」らしく見えていた方が
落差としては分かりやすかったように思う。

三婦が喧嘩で出たところに
「団七の使い」と称して義平次が琴浦を連れにやってくる。
ここで三婦の女房が渡してしまうのだが、
この女房も義平次を信用していない様子なので、
それだったら団七が来るのを待ったらいいのに、と思ってしまう。
そこがお芝居、ではあるのだが。
その話を聞いた団七が後から追いかけていく際、
花道で見得をしたりするのも、やはり「お芝居」。


「長町裏の場」。

琴浦を乗せた駕籠を追って団七が花道から飛び込んでくる。
駕籠屋もいる前で、団七が義平次を責め、
さらに団七の「愛想尽かし」を受けて
今度は義平次が団七を「宿無だったのを引き受けてやった」と責める。
このあたりのやりとりは面白い。

その後懐に金がある、後で渡す、と義平次を騙して
団七は琴浦を帰してやる。
そこからは義平次と団七の掛け合いになり、
騙された怒りから義平次が団七の雪駄を取り上げ、その額を割る。
このあたり「顔が立たない」「顔を潰された」と言う団七と
「顔は知らない、金が大事だ」とする義平次の価値観のギャップがベースにあるのだろう。
そう考えると、一概に「悪い親父」とは言えない面もある気がする。

団七も、最初から切るつもりはなく、
うっかり切ってしまった後もすぐには「殺そう」とまで思っていない。
人を殺し慣れた「悪党」という感じでもないし。
寧ろ「人殺し」と叫ばれるのを黙らせようとし、そのうち「殺さなければ仕方がない」と腹を括って
泥場での絡みに入っていく、という印象。

愛之助と義平次(橘三郎?)の掛け合い、
特に前半は捨て台詞の上手さが良く出ていた。
少なくとも団七は、「仕方ないな」と思いつつ、宿無しを拾ってもらった恩もあって
そこまで一方的に嫌っている訳ではない、といった愛憎が出ていて良かった。

最後に一寸徳兵衛が通りかかり、
雪駄を拾って持ち帰るところが大詰への伏線になってくる。


大詰。

団七のところに一寸徳兵衛が訪ねてくる。
お梶は夫団七が父義平次を殺したことを知らない、というのが背景にあるのだが、
それを知らせないまま、「親殺し」にならないよう団七をお梶と離縁させるため、
一寸徳兵衛がお梶に言い寄ったり、三婦も出てきて説明したり、と、
前幕と違って全体に地味な印象の幕。
一寸徳兵衛がお梶に迫るところで
お辰の顔が焼きただれている、という話が使われるあたりは興味深い。

気の沈んでいる団七はよく表現されていた。
ただ個人的には、団七は「父親を殺してしまった」ことをお梶に言ってしまえばいいのに、と
思ってしまった。
そこで告白しないのが「男を立てる」団七のあり方、なのかも知れないが。

最後は一寸徳兵衛が「団七を捕える」と称して逃がしてやり、
大屋根での立ち回りから団七が落ちていくところで幕。

三幕目が有名で他の幕はあまり上演される機会の多くない芝居だが、
他の幕が三幕目の背景になっていたり、
三幕目の「三婦内」と「長町裏」では繋がりが悪いと感じていたのが
他の幕も見ると繋がりが見えたり、と
発見がいろいろあって面白かった。
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松竹座七月大歌舞伎夜の部

2013年08月01日 09時39分40秒 | 歌舞伎・文楽
月曜は松竹座の夜の部へ。
当日でも三等席がとれた。


最初は「曽我物語」。岡本綺堂作の20分ほどの芝居。
仇討ち前に、五郎十郎と京小次郎、越後の禅司坊の4兄弟が集まる。
五郎十郎が異父兄である小次郎にも仇討ち参加を懇願するが、
小次郎は実父に義理を立てて「応援はするが参加しない」と言う。
仇討ちの応援に狩場の地図を渡すなど。
最後は五郎十郎も納得、諦めて発っていく、という話。

小次郎が何故実父に義理を立てる必要があるのかよく分からない
(別に工藤方でもなさそうだが)というテキストの問題もあるが、
何と言っても我當が聞いていてしんどい。
声から感情が感じられないし、
訥々としていると言えば言えなくもないのだろうが、科白のリズムも周囲と調和しない。

五郎の進之介も感情が出ないし、
歩き方も軽くておかしいが、
若者の一本気な様子は出ていて遥かにマシ。
十郎の翫雀は、兄と弟の間に入る温厚な性格が出ており、まあ良かった。


次が「一條大蔵譚」。
仁左衛門の大蔵卿で、
阿呆の軽さ、公卿らしさは流石。
何となく、先代仁左衛門が祇園で遊んでいたような
遊蕩の味があって面白い。

勿論「作り阿呆」なのだろうが、
単に源氏に肩入れして、平家の目を誤魔化すために阿呆のふりをしている、
だけでは済まないものがあるように感じた。
この大蔵卿、本当に「阿呆」になるベースがあるように思う。
それは人間誰しも心の奥底には遊蕩を求める気持ち、
阿呆になる可能性がある、ということなのかも知れない。
実は本当に阿呆であり、
「源氏に肩入れする」のもハラのように見せてはいるがそれも一面なのかも、
という多面性を感じた。

大蔵卿の心を探る吉岡鬼次郎・お京夫婦は橋之助と孝太郎。
橋之助はまあまあ。もう少し柔らかいところがあると良いのかも。
孝太郎が素晴らしい。
声、姿形、鬼次郎を立てる動きといい、立派な上方の女房役者だと思う。
良いタイミングがあれば、「我童」襲名も良いかも知れない。

秀太郎の常盤御前はあまり印象にない。
元々侍の妾らしい手強さは、弓を引く場面などで感じられた。


最後は南北の「杜若艶色紫」。
特にストーリーや人物の心理描写がメインになる訳ではない。
土手のお六や願哲の無法者ぶり、言動がメインで、
そこから幕末の退廃的な空気、
退廃的なればこその濁った活気が充溢すれば良いのだろう。
ただ個人的には、最後のお六が「義理」や「正義」の立場で
願哲を斬りにいくのは好みではないなあ。
終始己の欲得づくで動く、という方が一貫していて良いと思うのだが。

お六は福助。
体の内から爛れた雰囲気が滲み出るのではなく、
若干クサく作っているように感じた。
声や仕草、間などは流石。

願哲は橋之助。
こちらは少し立派過ぎる気がする。
もう少し骨の髄までヨゴレが沁み込んでいる
乞食坊主の存在感が欲しい。
特に強請りの場面、声音や押し引きのバランスは良いのだが。

ここに八ツ橋・佐野次郎左衛門の話が絡み、
御家騒動での失われた刀の探索ストーリーが入ってくる。
真面目に捉えるものではなく、
「こんな話も入れているのか」と感心すれば良い設定なのだろう。
そこを絡めてのだんまりなどは面白い。
翫雀の次郎左衛門は武骨で不器用そうであり、まあ悪くないが、
扇雀の八ツ橋はやはり不満。
相変わらず、声や動きが女形でない。


20時半頃終演。
全体に悪くはなかったが、
個人的には昼の部の「柳影澤螢火」の方が満足できた。
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