「正義」を希求することに対して、
シニカルに捉えたり、ニヒルに捉えたりするのが格好いい、という感覚が
横行しているように感じる。
曰く、「正しいことなんか何もない、数が正義だ」「いい子ぶるな」
「タテマエでなく、ホンネが大事だ」…。
露悪的なだけなのかも知れないが、どうも「正義」「正しさ」を追い求めるのは
青臭い、カッコつけてる、恥ずかしい、といった感じ。
戦後の民主主義や啓蒙思想に対するアンチテーゼなのかも知れない。
そのくせ、一度「これが正義だ」と決まったこと、決めたことについては、無反省に、
他者に対して押し付ける。
自分で「正義だ」と決定したことを根拠として行動する。
クレームの電話を入れまくる、ネットで叩きまくる。
そこには、「自分の行動は適切なのか?」という自省はなく、
「正義だと決定したから、正義だ」という信仰になっている。
この「正義を希求する」ことに対するニヒリズムと、
いったん決めた自己の「正義」に対する信仰と。
「正義」をさして重要なものでないと感じるか、己の言動のベースとする程の重きを置くか。
本来ならば相対立するはずの二つの感覚が共存している。
それは、或いは「自己に対する自信のなさ」と「自信がないから、周囲に対して虚勢を張って見せる」の
二面性と通底するのかも知れない。
自分の(いったん打ち立てた)「正義」に自信があるからこそ、
逆に自分自身の言動や判断を疑い、「より正義」を希求できる。
自信がないから正義だと(自分自身に対しても)信じ込み、反撃に耐えるためにこちらから先制攻撃する。
でも、正義を希求し、疑い続けるのは「しんどい」し「面倒くさい」。
「何が正しいか?」「本当に正しいのか?」と考えるのはエネルギーが要るし、
流れに逆らうよりも乗っかった方が楽。
でも、安きに流れるのは「正しい」ことなのか?
シニカルに捉えたり、ニヒルに捉えたりするのが格好いい、という感覚が
横行しているように感じる。
曰く、「正しいことなんか何もない、数が正義だ」「いい子ぶるな」
「タテマエでなく、ホンネが大事だ」…。
露悪的なだけなのかも知れないが、どうも「正義」「正しさ」を追い求めるのは
青臭い、カッコつけてる、恥ずかしい、といった感じ。
戦後の民主主義や啓蒙思想に対するアンチテーゼなのかも知れない。
そのくせ、一度「これが正義だ」と決まったこと、決めたことについては、無反省に、
他者に対して押し付ける。
自分で「正義だ」と決定したことを根拠として行動する。
クレームの電話を入れまくる、ネットで叩きまくる。
そこには、「自分の行動は適切なのか?」という自省はなく、
「正義だと決定したから、正義だ」という信仰になっている。
この「正義を希求する」ことに対するニヒリズムと、
いったん決めた自己の「正義」に対する信仰と。
「正義」をさして重要なものでないと感じるか、己の言動のベースとする程の重きを置くか。
本来ならば相対立するはずの二つの感覚が共存している。
それは、或いは「自己に対する自信のなさ」と「自信がないから、周囲に対して虚勢を張って見せる」の
二面性と通底するのかも知れない。
自分の(いったん打ち立てた)「正義」に自信があるからこそ、
逆に自分自身の言動や判断を疑い、「より正義」を希求できる。
自信がないから正義だと(自分自身に対しても)信じ込み、反撃に耐えるためにこちらから先制攻撃する。
でも、正義を希求し、疑い続けるのは「しんどい」し「面倒くさい」。
「何が正しいか?」「本当に正しいのか?」と考えるのはエネルギーが要るし、
流れに逆らうよりも乗っかった方が楽。
でも、安きに流れるのは「正しい」ことなのか?
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