おばあちゃんのコクラ日記

ピアノとぬかみそ 台所からの風景

昭和の少女

2022-08-10 21:48:00 | 日記
広島の日 長崎の日 もうすぐ終戦記念日

祈りの日が続きます。

昭和の少女は 学校に行く時ももんぺに上衣に防空頭巾

首から下げた救急袋の中には 止血のための三角巾

お茶缶の中には 非常食の炒り米か入り大豆が入っていて

走ると、カシャカシャと音がした。衣服にも持ち物にも

名札。住所氏名 それに血液型も必ず書くことになっていた。

音の記憶も鮮明。警戒警報 空襲警報のサイレン。

日本の飛行機の軽い音と違う響く低音の重厚なビー29の唸り。



枕元には もんぺに防空頭巾を常備。

空襲警報のサイレンに支度をして防空壕に避難。

部屋に 電気はつけられなくて 当時一年生の妹は

もんぺ もんぺと泣いていた。

焼夷弾でに庭木は燃える。家もピアノにも火がついたのを

父が消して助かったことも体験した。

ピアノの先生のお宅は 家もピアノも焼けてしまって

ピアノのお稽古はもうしなくて良いのかなとちよっと

嬉しい気持ちがした昭和の少女でした。

両親が先生にお願いして 先生が我が家に来て下さる様にお願いして

お稽古を続ける事が出来たのでした。

姉と 私と 妹三人のレッスンに来て下さる日は

母が 小麦粉やさつま芋で お茶受けを作っていました。

まだ お菓子も売っていない戦中 戦後のことてす。

防空壕の中で空襲警報が解除になったら ピアノのお稽古ね。

言い続けた両親に感謝です。

アイスクリーム

2022-08-03 20:51:00 | 日記
戦前の幼い日 祖母が呼んだタクシーで

祖母とお出かけをした事があった。

姉二人は学校、妹はまだ幼くて、お母ちゃんから離れられないとき。

街には 銀丁というデパートがあって横を市電が走っていた。

市電の向かい側のビルの2階に 味の銀丁というレストランがあった。


祖母の買いものだったのか レストランが目的だったのか

全く覚えていない。覚えているのはそのレストランで食べた

アイスクリームが 塩辛くて食べられなかった事。

今は家庭の冷蔵庫にアイスクリームが入っている事もあるけれども

当時のアイスクリームは 夢の様な食べ物だった。


辛くて食べられないアイスクリームを前に

レストランとどの様なやりとりがあったのかは覚えていない。

祖母と「辛かったねぇ。食べられなかったねぇ。」と分かり合えて嬉しかった。

父が 「アイスクリームを作る時に塩を使って温度を下げるからね。

    作る時に、周りにお塩を入れるから、それが入ったのだろう。」

と言ったのを 覚えている。


それからは 戦争に突入ーーだんだん食べる物がなくなり、デパートも無くなった。

子供達は成長期にみんなひもじい ひもじいを体験したのでした。