アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

成願寺 キリシタン墓碑が発見される  ミニ三十三間堂

2015年06月07日 19時29分47秒 | 寺院

天正6年(1578年) 実誉上人によって創建された 浄土宗知恩院派 現在の建物は 天明の大火(1788年)の後の再建 平安・鎌倉の多くの仏像がある。 これは、付近にあった長宝寺の遺仏と伝わります。これに因んでお堂を長宝堂といいます

 境内墓地から発見されたキリシタン墓碑2基は現在 京都国立博物館にあります

乾33所 第貮拾九番 と記されている

          関連記事 ➡ 京都国立博物館

 

長宝堂

 

長寶堂

洛陽 廿九番 と書かれている

内部は

千体はあります  ミニ三十三間堂  です

 

 

関連記事は この画面左上 ブログ内検索 を使ってみてください

 

近辺地域記事  地図の右下 ユーザー地図 をクリック

 

 


京都国立博物館 野外展示 「考える人」

2015年06月07日 15時35分32秒 | アートなこと

 

悩み事か

 

 

 

 

簡単に解決しそうもない

 

関連記事 ➡ 平成知新館内  京博・野外展示

 

博物館のユーチューブ 2021.1.6 追加

  【京博 トラりん公式】「トラりんチャンネル展覧会6」考える人だリン♪

 

 


建勲神社・社号標は皇紀2600年記念だった

2015年06月07日 14時16分48秒 | 石碑

正面の北方向の森は 船岡山

 

建勲神社の社号標がありました

手前の左右の通りは鞍馬口通り

このような社号標は地図にも載っていないので

見つけたときはお宝発見の気分です

足で稼いだおかげかな

 

 

 

皇紀2600年記念とはっきりと書かれています

 

関連記事 ➡  紀元2600年  東の社号標  北の社号標 建勲神社

 


近衛天皇火葬塚

2015年06月07日 13時29分28秒 | 陵墓

 1139年~1155年  若くして亡くなる 少年だ  

母は 美福門院  父は 鳥羽天皇  

鳥羽天皇の前の皇后は 待賢門院  

待賢門院の子に  崇徳天皇、後白河天皇がいる

 

崇徳天皇に代わってわずか2歳で即位した  

鳥羽法皇が亡くなると 崇徳、後白河の兄弟の争いが起こる

 

 

 

 

めずらしい  堀になっています

 

 

 

 

 


宝樹寺  浄土宗 西山深草派

2015年06月07日 11時52分02秒 | 寺院

  門には 北野虫除八幡 と掲げてありました

 寳樹寺の開山当時の記録は、

江戸時代二度の火災に遭った為焼失しているので定かではないが、

過去帳序文によると 寛文九年(西暦1668年)の開山と推測される。

 

境内北側のお堂には弘法大師がまつられ、

七本松通りに面しているため、道行く人の参詣も多い。

 



戦前は百羽を超える八幡神の使者である鳩が境内を乱舞していたが、

今はその姿はない。通称『鳩寺』の由来です。

 

 

 

南側には子供の『疳の虫封じ』の神として八幡神がまつられている

 

 参考➡ ホームページ 宝樹寺

 


安楽寺  

2015年06月07日 10時50分39秒 | 寺院

関通上人 

1696~1770 尾張生・浄土宗僧侶 13歳で剃髪、江戸増上寺祐天に学ぶ。

諸国に念仏を広め歩いた。京都轉輪寺(円通寺)にて念仏道場を開く。転法輪寺開山。

 

關通上人  ➡  ジャンプ 転法輪寺


史跡 船岡山 

2015年06月07日 06時38分43秒 | 史跡・旧跡

 

本公園は,大徳寺の南に横たわる高さ112メートル余の小丘にある公園で,

その地形が船に似ていることから古来船岡と呼ばれ,

眺望が極めてよく,多くの史跡があります。


 船岡山は,大内裏の北にあたり御苑に近かったことから,

王朝時代には王候貴人の散策の地とされ,

円融天皇譲位の後は,この山に「子」の日の遊びが催されました。

その後,応仁の乱等の陣地となったこともあります。

明治13年には織田信長をまつる建勲神社

(公園区域外)が中腹に東面して建立され,その後山頂に移されました

 

階段の途中 右の家 ちょっと ユニークな屋根です 

下から 数えると 4階建てのようにも見えます

  町中の眺めも いいなあ

 


清和院

2015年06月07日 01時14分48秒 | 寺院

 

 

洛陽33所観音巡り  第33番札所

 

第56代清和天皇(在位858~876)ゆかりの寺で、真言宗智山派に属する。平安初期にその後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第」の南に仁寿年間既に創建されていた仏心院を基に、清和天皇譲位後の後院として清和院が設けられたのが始まりである。清和院は代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなったが、徳治3年(1308)に再建、仏寺化された。

今も京都御所の東北に「染殿第跡」や清和院御門が現存し、その名残をとどめている。

本尊は、木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代・重文)で等身大・玉眼入り、極彩色の精緻を極めた見事な尊像である。玉体地蔵とも呼ばれている。また、傍らには清和天皇坐像、同皇后像と伝える坐像が安置されている。清和天皇が清和源氏の祖であったことから、室町将軍足利氏も深く帰依し、その保護を受けて栄えたが、寛文元年(1661)の御所炎上の際に清和院も類焼し、後水尾院と東福門院によって現在地に移転再興された。また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が消失後合併されたため、洛陽観音霊場の結願所でもある。京都市

 

 

明治30年代の建立

 

白梅殿 古跡  爪形天満宮

 

 

 

 

平成27年5月28日 撮影

関連記事 ➡ 観音めぐり  ジャンプ  、天満宮 ジャンプ

         清和天皇水尾山陵  清和天皇社