アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

舎密局・ オランダ語の 『化学』   跡  

2015年06月27日 21時58分22秒 | 史跡・旧跡

現在の 建物は  銅駝美術工芸高校

 

舎密局跡

「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学を意味する。この地は、東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都における舎密局(理化学研究所)がつくられた場所で、明治3年(1870)、明石博高の建議により府知事・槙村正直が仮設立、同6年に完成した。受講生を広く募集し、ドイツ人ワグネルら外国人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及に努めた。また、本格的な理化学の講義は島津製作所創業者・島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。明治14年(1881)、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同28年(1895)に消失し、その後に銅駝小学校(現在は銅駝美術工芸高校)が移転してきた。 京都市

当時の写真

 

ドイツ人 ワグネル

 

平成27年6月17日  撮影

関連記事  ➡  府立図書館のワグネル碑

        人物045  新島 八重

               ➡  島津源蔵の言葉 だるま寺    


石碑中0083  山脇東洋解剖碑所在墓地 

2015年06月27日 16時43分45秒 | 石碑

 山脇東洋(1705~62)は,山脇玄修(1654~1727)に医学を学び,

その養子となった。

六角大宮にあった六角牢獄で宝暦4(1754)年,男の刑死人の解剖を行い,

実地について人体構造を観察した。日本最初の解剖だった

著書にこの時の解剖記録『臓志』がある。

解剖された刑死人の供養碑が,誓願寺の墓地に建てられた。

この石標はその供養碑の所在を示すものである。

なお,現在の供養碑は複製で,原碑は京都大学総合博物館に寄附された

 

ここは、請願寺墓地の入口

山脇東洋宝永2年(1705年) 丹波・亀山の医師清水東軒の三男として生まれた

学才を買われ、京の医師 山脇玄修の養子となる

当時は死体の損傷を極度に忌避するのは日本人の生まれながらの感情であり、

古来から律令や不文律で禁じられてきた

それまで、カワウソの解剖で教えられてきたが東洋は満足しなかった

京都所司代に解剖許可願いを出し

宝暦4年(1754年) 東洋49歳の時日本最初の人体解剖を行った

場所は六角獄舎

解剖に同席した 小杉玄適は江戸に行き杉田玄白に伝えた

「解体新書」が出るのはそれから17年後になる

著書は「蔵志」  「養寿院医則」 など

宝暦12年(1762年)死去

墓は深草の真宗院、本山の新京極の誓願寺にもある

昭和45年3月 京都市 

 山脇東洋 まとめ ➡  人物007  山脇東洋

石碑 前回の記事 ➡  石碑伏0082  伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地  東山一周トレイル F12

川柳

お迎えは どこから来るのと 孫が聞く     /眞鍋

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新島襄 旧邸  22歳の時アメリカへ密航した

2015年06月27日 14時10分50秒 | 史跡・旧跡

新島襄と妻八重の私邸  1878年(明治11年)9月竣工

和に洋を取り入れた建築様式 八重は亡くなるまでここに住む

 1932年6月  87歳  

大河ドラマの時は見物の人が多かったが

今は静かです

 

新島襄  天保14年(1843年)群馬県安中藩の江戸屋敷に生まれる。

22歳の時幕府の禁を犯してアメリカへ密航、

密航船の船主ハーディーの元10年アメリカで学び

大学を卒業、帰国後学校設立に力を注ぐが15年後に病死 

墓は永観堂 若王子山頂 同志社墓地にある

八重の墓も同志社墓地にある

 

 

 

 

 

 

H27.3.28 撮影 

 

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関連記事 ⇒ 人物045  新島 八重


菊野さん  女性に人気の縁切り寺

2015年06月27日 00時12分34秒 | 寺院

法雲寺の境内の東に西向きに建っています  菊野大明神の本尊は石です

菊野大明神はもともと 東洞院三条の角の曇華院の前にありました

曇華院が嵯峨野に移転することになったので、

明治5年にここ法雲寺に来ることになりましたが、

それから 山伏が現れ 

境内の東に西向きに建てよこの寺にきくのという石がある

 悪縁を切って良縁になるとお告げを言って立ち去りました

寺は山伏のお告げにしたがいました

 明治から昭和の戦前までにぎわいました

 

 

 

文政5年(1822年)の石碑です

 

 

 

 

 

 

小さい堂内は

入ってみると 暗かった

 

 

梁の上には絵馬が隙間なく奉納されていました

縁切り達成出来たのでしょう

 

 

御礼詣りの奉納絵馬

女性の絵が描かれた絵馬です