アートプラス京めぐり

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建勲神社 東の社号標

2015年06月08日 23時06分19秒 | 石碑

 

正面に見える鳥居が建勲神社  朱色でよく目立ちます

  それを覆うように 大鳥居があります

北、南、東 3つある社号標の中でも もっとも古い

明治31年だ

 

関連記事 ➡  南の社号標   北の社号標  建勲神社


若宮神社

2015年06月08日 16時16分31秒 | 神社

鳥居は昭和6年9月建立

社号標は 昭和6年10月建立

右端にある 国旗掲揚石柱は

 

昭和19年 陸軍記念日建立   

陸軍記念日 3月10日    

1945年3月10日は 東京大空襲で8万人の人が亡くなった日だ

関連記事 ➡ 日本の空襲

 

紀元2600年記念の灯籠  神社に向かって左側

関連記事 ➡ 紀元2600年

 

もう一つには 昭和16年5月建立  (紀元2601年) 

 

狛犬

 

第2鳥居  大正5年8月建立

 

末社

吉丸明神

権太夫大明神

白菊大明神

久高明神

 

 

手水舎

 

平成27年6月1日 撮影


雲林院

2015年06月08日 13時22分35秒 | 寺院

 

紫式部はこのあたりで生まれ、育った

 

手水舎

 

観音堂  11面千手観音

 

南無地蔵菩薩

 

紫雲弁財天

 

歌碑

 

これは 何重の塔なんでしょうか   11重かな

 

 

平成27年6月1日 撮影

 

 

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丹という女性

2015年06月08日 09時36分26秒 | 石碑

赤穂浪士 小野寺十内の妻  丹

赤穂浪士のひとり小野寺十内(1643~1703)の妻丹(?~1703)は,夫の切腹後,

西方寺(現京都市左京区)に夫の墓を建て,

ひそかに江戸泉岳寺から夫の首を掘り起こし西方寺に葬った。

そのあと食を断ち自死したと伝える。

丹の墓は本圀寺塔頭了覚院に建てられたが,

了覚院が廃寺になったあとも墓所だけが現存している。

なお了覚院が廃寺になるとき,富岡鉄斎が墓を引き取ろうとして果たさず,

瑞光院(現山科区)に招魂碑を妻春子の名で建立した。

 以上の経緯は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958年京を語る会刊)に依拠する。

なお丹は寛政2(1790)年刊『近世畸人伝』にも大きくとりあげられ,貞女の範と賞揚されている。

 夫婦仲がよかった  

夫、十内は丹を気遣い  丹も十内を気遣っていました

赤穂浪士 討ち入り後 十内は2月4日に切腹

丹は十内らの墓を西方寺(東山二条)にきづいて、

6月18日 自ら食を断って亡くなった

林昌院(下京区)に丹の過去帳がある

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