紫式部はこのあたりで生まれ、育った
手水舎
観音堂 11面千手観音
南無地蔵菩薩
紫雲弁財天
歌碑
これは 何重の塔なんでしょうか 11重かな
平成27年6月1日 撮影
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京の町中を掘り起こせば
昔の遺物・遺跡が必ずといっていいほど出てきます
石仏は実に多数あります
粗末に扱う人はいないようです
赤穂浪士 小野寺十内の妻 丹
赤穂浪士のひとり小野寺十内(1643~1703)の妻丹(?~1703)は,夫の切腹後,
西方寺(現京都市左京区)に夫の墓を建て,
ひそかに江戸泉岳寺から夫の首を掘り起こし西方寺に葬った。
そのあと食を断ち自死したと伝える。
丹の墓は本圀寺塔頭了覚院に建てられたが,
了覚院が廃寺になったあとも墓所だけが現存している。
なお了覚院が廃寺になるとき,富岡鉄斎が墓を引き取ろうとして果たさず,
瑞光院(現山科区)に招魂碑を妻春子の名で建立した。
以上の経緯は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958年京を語る会刊)に依拠する。
なお丹は寛政2(1790)年刊『近世畸人伝』にも大きくとりあげられ,貞女の範と賞揚されている。
夫婦仲がよかった
夫、十内は丹を気遣い 丹も十内を気遣っていました
赤穂浪士 討ち入り後 十内は2月4日に切腹
丹は十内らの墓を西方寺(東山二条)にきづいて、
6月18日 自ら食を断って亡くなった
林昌院(下京区)に丹の過去帳がある
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